『ダウンサイズ』

 

素晴らしいと思ったのは、オープニングで縮小計画の概要などを一通り説明した後、主人公ポールが登場してから続く一連の展開だ。

まず、ポールは初登場時にダイナーで縮小計画のニュースを見ながら、テイクアウトが出来上がるのを待っている。その後、自宅に帰宅し、重たい病気を患う母親にテイクアウトを食べさせ、二階に上がり看病をすることで、ポールは自宅で母親の介護をしながら生活していることが観客に示される。

そして、次のシーンでは一気に十年後。また同じようにダイナーで縮小化のニュースを見ながらテイクアウトが出来上がるのを待ち、十年前と同じように帰宅する。自宅で待っていたのは妻のオードリーで、体調が悪そうな彼女にポールはマッサージをして気遣う。ここで、彼は十年間の間に結婚したことが観客には示される。

次のシーンでは、彼が食肉工場で従業員のケアをしているところが描かれます。ここで、ポールは作業療法士の仕事をしていることが観客に示される。

ポールが初登場してから始まる、この三つの連続したシークエンスは、どれも彼が自分以外の人のために何かをしているところが描かれているため、彼が利他的な人間であることが、観客はこの時点で認識できるようになっている。それと同時に、テイクアウトを買って自宅に帰宅する二つのシークエンスは、ポールの言動のみならず撮影、編集のテンポに到るまで、ほぼ同じように描かれるため、十年経ってもポールの日常が変わりばえしていないことが映像的に表現されていて、なにか彼の生活が行き詰まっているような気配もこの時点で感じることができる。

特に、帰宅したポールが台所からリビングに移動していくショットは、移動するポールに合わせてカメラがリビングにパンする(横に振る)と、母親/オードリーがフレームインしてくるという風に、全く同じカメラワークで描かれる。これによって自宅で待っている存在が十年前と後のシーンで、母親からオードリーに変わっているという、たったひとつの違いが映像的に強調され、母親の不在というのが無意識に気になってしまうよう視覚的に設計されている。しかし、その後、母親は一切登場せず物語の展開に関わることがないため、なぜ母親の存在を強調したのか、この時点では分からない。だが、後にポールとオードリーが出席する高校の同窓会シーンで、実はポールには「母親が病気になったため、かつて憧れていた医者になる道を諦めた」過去があることが、あくまでも級友との会話としてさりげなく語られることによって、母親の存在の重みが一気に増し、その時点では大したことないように思えた、序盤の母親の介護は実は自分の夢と引き換えにしたものであることが後の展開から分かるようになっている。それも、彼には母親以外の家族が一切登場しないことや、入院させて満足な治療を受けさせることができないであろう経済状況が予想できることから、母親の介護は仕方なく選択せざるを得なかったことなのではないかということが想像できる。

これらのさりげない情報から、ポールがなぜ人生に行き詰まっている様子だったのかがようやく分かる。つまり、彼は介護の引き換えに医者を諦めたにも関わらず、母親が亡くなった今となっては、結局、医者になれず中年を迎えた自分だけが残ってしまい、かつて憧れた人生とはまるで程遠いところに行き着いてしまい、行き詰まっているのだ。

この、社会的な名声や成功に代表される、何かしらの特別なことをまるでやり遂げずに中年を迎えてしまった今、人生の行き詰まりに直面する人物というのは、まさしくアレクサンダー・ペイン監督が追求するテーマであり主人公像である。

しかし、とても重要なのはポールがかつて目指した「医者」と、挫折した原因の「母親の介護」は、どちらも利他的な動機に基づくもので根っこは同じということで、これによって、彼の根底には昔から「誰かの役に立ちたい」という利他性が強く根付いていることも分かる。この「誰かの役に立ちたい」というのは、その後の展開にも大きく関わり、最終的に物語が帰着することになるポールの重要な人間性だ。 

 

つまり、『ダウンサイズ 』はそういうテーマや物語である以上、宣伝や設定から想像できる『ミクロキッズ』や『アントマン』のような、即物的な見せ場を目的にした明快なエンターテイメント映画とは全く違うわけだ。本作が興行的、批評的にも大コケしたのは、宣伝から想像できるものと、実際の内容のギャップがあまりにも開きすぎていることで、肩透かしを食らったり居心地の悪い思いをした観客が多かったからではないかと思う。

 

上映時間三十分を過ぎたあたりで、購入しようとした新居の住宅ローン審査に落とされ、ますます行き詰まったポールがいよいよ縮小化を決断することで、彼自身もそして観客も、ここから物語が大きく動き出すのではと期待する。しかし、結果的にオードリーは縮小手術最中に逃げ出し、ポールは捨てられてしまうことで、物語はさらにどん詰まった展開を見せる。

ポールが縮小化を決断した動機は、主にオードリーを経済的に満足させたいという、やはり彼らしい利他的なものに思える。実際、彼はオードリーと劇中最後に交わす電話での会話シーンで「俺こそ君のためにやったんだぞ!」と言う。そんな、ポールを裏切るオードリーの行動は非常に勝手なものに思えるが、しかし、それまでの彼女の様々な言動を見ていれば、ポールを裏切ったのは実は当然の結果であることが分かる。最後の会話でオードリーはポールに「私は今まであなたの顔色を伺って生きてきた。でも、ついに限界を迎えてしまった」と告白するが、この言葉通りオードリーは劇中ほとんでのシーンで、ポールの言動に合わせて自分も同じ言動をするようにしている(特に劇中二回ある縮小化の質問を職員からされるシーンに顕著です)。

同様にそれまでのオードリーの様々な言動から、実は縮小化に乗り気ではなかったことも、はっきり読み取れる。例えば、送別会のシーンで友達から「どうして縮小化に踏み切ったの?」と聞かれると彼女は「主人に押されて」と答え、最後に友達から別れを惜しまれると「一年に一回は帰ってくる。いやもっと頻繁に帰ってくる」と返し、縮小化手術に向かう飛行機の中でオードリーは「何かを置いてきた気がする」と呟く。もちろんこの「何か」とは友達、家族、そして自分の気持ちのことを指しているのだと思う。他にも、縮小化に向かうバスの中で、不安げな表情を浮かべていても、ポールが自分を振り向くとそれを隠すかのように笑って見せたりと、彼女が自分の本音を殺している事を明らかにする描写は他にもたくさんある。

これほどのサインがあったにも関わらず、ポールは彼女の気持ちを、もしかしたら気付こうともしなかったのかもしれない。それを明らかにするように、劇中、オードリーに縮小化の意思があるか、ポールが改めて確認するシーンはひとつもない。そもそも、二人で縮小化の相談をしているシーンもない。ポールは「彼女は絶対に自分に同意している」と信じて疑わなかったのかもしれないし、もしかしたら「同意していなくても自分に合わせるだろう」と腹の底では思っていたのかもしれない。

そういった、オードリーの気持ちを真剣に考えたとは思えない彼の態度を考えると、彼女に対して言う「俺こそ君のためにやったんだぞ!」という言葉は、自分を正当化するような言い訳がましい卑怯な言葉にしか聞こえない。きっと、ポールはオードリーのためでなく、行き詰まった自分の現状を打破したいから縮小化を決断したのだろう。

どうやら、ポールは特別な場所に行けば、状況も好転し、自分も特別になれると思っている節があるようだ。要は、特別な外部に寄りかかることで、自分も特別になれるという浅ましい錯覚を持っていて、その浅ましさは後の展開からも明確になっていく。そして、その結果、身近にいる大切な人を失ってしまう事態になるという展開はクライマックスにも反復されてしまう。

反復されると言えば、ポールが別の世界に足を踏み入れる重要な展開が劇中三回繰り返されるが(縮小化、壁の向こう側、地下コロニー)、その三つの展開は全てトンネル状の通路を通って別の世界に行くと言う風になっていて、視覚的にも反復されている。

 

ポールは何とか縮小世界での生活を始めるが、オードリーに捨てられたことで、なにしろ精神状態がどん詰まっているせいで、全てが美しく設計された夢のようなユートピアに見えた縮小世界も、いざ実際に入ってみると人工的なテーマパークのような場所ゆえ息苦しく安っぽい場所に見えてきてしまう。そして、実は縮小世界は等身大世界となんら変わらないどころか、あらゆるものが縮小され凝縮されたが故に、現実世界での問題もより可視化されたディストピアであったことが分かっていく。なので、この作品の批判としてよく目にする、縮小世界と等身大世界のギャップや対比がないというのはまさに意図的なものであり、どんな形であれ縮小世界を特別なものとして描くと、ポールの選択が肯定されてしまいテーマがぶれてしまう。彼の人間ドラマである以上、エンタメ映画のよう観客を安心させて楽しませない作りというのは極めて誠実だと思う。

 

中盤、ドゥシャンが登場してから始まるパーティーシーンは物語の進行が表面的には停滞しているように見えるので、ここら辺から退屈になった、なんの映画だか分からなくなった、という批判もよく見かけます。実際、映画館で観ていた際、隣にいた観客はここで爆睡し出しました。

しかし、パーティーのシーンではポールの重要な人間性の側面でもある、浅ましさが右往左往する様が描かれているため、実は物語は停滞していない。その浅ましさを象徴するアイテムが、ポールがドゥシャンへの手土産として持っていく黄色いバラだ。

そもそも、この黄色いバラはシングルマザーとのデートシーンで、これ見よがしに自室に飾っていたものだったのに、その後、他人にあげてしまうと言うことはポールにとって大事なものではない事がわかる。おそらくこのバラは、部屋に綺麗なものをおいておけば、シングルマザーから気に入られるのではという策で飾っていたものだと思う。だから、シングルマザーと破局したことで部屋に飾る意味を無くしたバラは、パーティーに持っていって見せびらかし、あわよくばその場の女性たちの気を引こうと考えたのではないか。

このバラからも、やはり、彼は特別な外部に寄りかかることで、自分にもそれと同等の特別な価値がもたらされると考えている節があることが伺える。劇中何度かある有名人と出会う展開で、彼が必ず見せる無条件に喜んだリアクションも、そういう彼の浅ましさを表しているのではないか。そんな、特別な存在への強い憧れや願望は、自分にとって特別な存在である医者になれなかった過去の後悔に加えて、オードリーから最悪な形で捨てられてしまったことで、より強固なものになってしまったのだろう。

 

結局、黄色いバラには誰も見向きしないパーティでは、たまたま誘ってきた女性の気を繋ぎ止めたいがために、ポールは勧められたドラッグを飲んでラリってしまう。そして、幻覚の中には黄色いバラの蕾が登場し、そこからはオードリー(それも何か浮かない表情の)が出てくるのは象徴的だ。ちなみに、オードリーは高校の同窓会でこのバラと同じ色合いの黄色いセーターを着ていた。

翌朝、狂乱後の部屋の床で目覚めたポールを俯瞰で捉えたショットの片隅に、地面に捨てられ朽ち始めた黄色いバラが、あくまでもさり気なく映っている。バラ同様にポールの浅ましさもボロボロになって、ひとまず特別な存在であるとかそういったものへの憧れや、オードリーに対する未練がどうでもよくなったのか、その直後、彼は部屋にやってきた清掃婦の中から脚を引きずる女性を発見し、利他性から彼女を心配し追いかける。この女性こそが後のパートナーになるトランであった。

ペイン作品は、劇中のアイテムに登場人物の感情や物語上の意味を象徴していることが多く、こういった部分も物語に重層的な奥行きを与えています(過去作では『サイドウェイ』の61年物のワインに主人公のトラウマが込められていたように)

 

ポールはトランを助け、そして彼女からさらに大勢の人助けを半ば強制的にやらされることで、自分の根底にあった「誰かの役に立ちたい」と言う利他性が強く蘇ってくる。しかも、その過程でポールは医者を装わざるを得なくなることで、かつて憧れていた夢を(嘘ではあるものの)図らずも叶えてしまうこの皮肉な展開は、とても面白く感動的である。

ポールとトランが人種、性格、生き方もまるで違うのに惹かれ合っていくのは、お互い根底に利他性がある点で共通しているからです。だからこそ、トランはポールにとって真に特別なパートナーになり得た。しかし、生き方や性格がまるで違うが故に、衝突することも多い。この、お互い根底には同じものを抱えている凸凹コンビという組み合わせは、ペイン作品では頻繁に用いられる。だから、ペイン作品は常にバディムービー的でもあります。

 

トランと出会い、ようやく変化できたかに見えた、ポールはクライマックスで地下コロニーに出会うことで、また「特別な」ものに寄り掛かろうとする浅ましさが顔を出してしまう。

まず、ノルウェーのコロニーに行くとおかしなオバハンがポールを指差し「あなた見たことある!」と突然言い出す。その後、オバハンは「あなたは昨日の私の夢に出てきた。馬かポニーで、私はあなたにまたがって森を駆け抜けると」と続ける。意味がわからない。ポールも困惑するのだが「あなた見たことある!」と言われた時は少し嬉しそうな反応をすることから、自分が一瞬、憧れの有名人になれたような錯覚を覚えてしまったのではないかと思う。その後、このオバハンこそが地下コロニー計画の発案者で、しかもその計画がノアの方舟を思わせる特別な感じを漂わせたことが重なって、ポールは地下コロニーに急速に魅了されてしまったのではないか。

このあたりから、ポールの言動はどんどん利己的になっていく。トランが「帰りを待つ人たちに会いたい」と言うとポールは「いずれ地球は終わるんだから、そんなちっぽけな人たちを助けても仕方ない」と言ってしまう。

思い返せば、序盤の介護シーンでも母親と似たようなやり取りをしていた。ポールが帰宅するとテレビで縮小化のニュースを見ていた母親は「いつ終わるかも分からない地球は救おうとするのに、私の病気は誰も治してくれない」「私は辛いの、呼吸が苦しいの」と言うとポールは「みんな辛いんだよ」と冷めた様子で返してしまう。

 

終盤で素晴らしいのは蝶が出てくる展開だ。このシーンで、ポールはトランから投げられる「私を愛しているか?」という問いを誤魔化すために、偶然、現れた蝶に話題をそらそうとする。中盤の二人の会話で語られるように、蝶はトランが愛していやまない生き物であるにも関わらず、現れた蝶に見向きもせず、ポールから決して目を離さない彼女の表情から、悲痛な気持ちが伝わりグッとくる。そして、自分のことしか頭にないがあまりトランを傷つけるポールは利己的だ。特に、麻みたいな服を着てコロニーの面々に同化し、ポンポコ太鼓を叩く彼の姿は全く浅ましいものだ。そして、地下コロニー計画自体も、地球のためや人類のためといった利他的な特別さを内包するものに見えて、要は、自分達だけが助かりたいという全くもって利己的なものにしか思えない点でもポールと通じていると思う。

 

クライマックス、トンネルに向かっていくポールがふと立ち止まり、引き返すべきか進むべきか迷いだすのは、結局、みんなから置いていかれてしまい、一人取り残されたことで、孤独を感じだしたからだと思う。ここで、トンネルの先に向かっていく皆の姿が、まるで小さくなって見えていくような、不安を煽るショットがふっと入るのが効果的だ。ポールは見つかるかも分からない自分とやらをあてもなく探すより、身近にいる存在をきちんと大切にしなくてはいけないのでは?と言うことにようやく気づけたんじゃないか。それは、クライマックス前に叫んだ「自分は何者なんだ?」という問いに対して、トランから「あなたはあなたよ!(原語だとYou're Paul Safranek!と彼のフルネームで答える)」という明快な答えをもらえたから気づけたことでもある。

 

その後、ラストに用意されているのは、ポールが雨の中、ある人物にお弁当を届けに行くという極めて地味な行為だが、本当に感動的だ。

それは、彼が行う行為が単に人助けというぐうの音も出ないほど正しい行いだから感動するのでもないし、あの壁と壁の向こう側に暮らす人々に、現実の社会問題のメッセージやテーマが読み取れるから感動するのでも断じてない。

ポールはもうすぐ終わるかもしれない世界の、まるで思ってもみなかった場所で、自分の根底にあった願望である「誰かの役に立ちたい」という利他性を真に取り戻し、長かった自分探しの末に、ようやく本来のアイデンティティに立ち返る事ができた。そして、序盤で母親とオードリーに行なっていた、お弁当を届けるという行為がここで反復されることによって、まるでかつて大切にすることができかった人たちに対する贖罪の意味も込められているのではないかと思える。それは、これだけ豊かで丁寧な作劇の積み重ねによる物語と、演出の巧みさがあったからこそ到達できる、純映画的な感動である。そして、そこまでの高みに到達できればこそ「誰かの役に立ちたい」というそれ自体は陳腐で面白みがないものにも、普遍的で力強いメッセージが宿るのだと思います。ポールがある人物に向ける、あの眼差しを捉えたラストカットは忘れられない。