『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』

スピルバーグは最近、休みの日は一日中観まくるくらい、昨今のハイクオリティなドラマシリーズにハマっているというインタビュー記事をどこかで読んだ気がした。それを証明するように、本作のキャスティングは主役二人以外のほとんどが、評価の高いドラマシリーズで重要な役をやった役者ばかりだ。ひとえに本作が非常に短い製作期間(企画開始からプリプロ、撮影、ポスプロ、完成までわずか一年以内!)で作る必要があったため、テレビシリーズで優秀な仕事をした役者たちの力が必要だったが故のキャスティングだと思う。

クリフハンガーを効かせたラストと、その直後バンッと!エンドクレジットに入る切れ味のテンポや、数多くいる主要キャラに見せ場を律儀に用意している辺りなどもドラマシリーズ的だと思う。シネスコがおなじみのスピルバーグ作品では珍しく画面がビスタサイズなのも、もしかしたら堂々たる映画らしいルックより、こじんまりとしたドラマっぽいルックにしたいという意図なんじゃないかと思ったけど、これは考えすぎかもしれない。

映画界全体がドラマシリーズ的なコンセプトと世界観に則る潮流の今、スピルバーグは商業性とは別に、その力を存分に利用したんだと思う。

しかし、ドラマシリーズと本作の決定的な違いは作品の尺だ。本作は116分というタイトな時間に情報量の多い物語を凝縮して描いてみせることで、十時間以上かけた長大なドラマシリーズにだって引けを取らない密度に達している。むしろ、その凝縮された密度ゆえに生まれる、本作のノンストップなスピード感は、長大なドラマシリーズでは到達できないものだと思う。豊かな描写や密度というのは、決して長い時間をかければ生み出せるわけではないというとを力強く証明している。

全体的にユーモラスなシーンが多いことも相まって、いかにも重厚な実録映画というやぼったい印象を与えず、むしろ軽やかなエンターテイメント映画としての風格があるのがクールだ。エンディングだってまるで連続活劇映画のような痛快さで、実録映画で飽きるほど定番になってる登場人物の実際の写真や、その後を文字で説明したりしないのも、最後まで娯楽映画らしく振舞ってやる!という主張だと思う。

 

本作の物語だけを取り出してみれば、非常にシンプルで地味な要素で構成されている分、脚本には大して凄味はない感じがする。しかし、映画的としか言いようのない演出によってワンシーンワンカット全てが緻密な迫力に満ちていて、結果、脚本のシンプルさやストレートなフェミニズムテーマもきちんと力強いものに化けたと思う。

 

全編に渡って電話が非常にサスペンスフルで印象的だ。そもそも顔が見えない相手と話すっていうのは緊迫感がある。その中でも、中盤の大人数が会す電話のシーンは一番グッときた。それまで、基本的にオーソドックスなカット割りだった撮影と編集もここではトーンが変わる。キャサリンが意を決して電話を取り出すと、カメラは突如、俯瞰した位置から彼女を捉え、まるで天井を這う生物のようにじっくりと移動しだす。これによって彼女が感じている孤立感と、巨大な何かにジッと睨まれてるような不安と緊迫を観客も感じてしまう。その後、受話器の向こうで複数の人物が異なる意見を激しくぶつけ出す毎に、キャサリンは室内の様々な方向にハッと視線を向け出すのを、素早く細かい編集で描くことで、電話の向こうにいる人物が室内に存在するかのようであると同時に、彼女が異なる意見に激しく振り回されているような効果ももたらしている。

最終的に彼女が下すジャッジは、もちろん史実である以上、こちらが予想していた通りの結論であるが、その結論をどういった芝居のテンションのセリフで言うのか。ここには間違いない映画的なカタルシスがあり、その力強さに思わず目頭が熱くなってしまった。しかも、連呼することによって絶妙にユーモラスなのも良い。

ここが感動的なのは、巨大な権力や多数派に屈しず、彼女が自分の信念を貫いてみせた勇気ある瞬間だからだ。そして、それはこの物語の真のテーマであり、スピルバーグが一貫して描き続ける主人公像だ。そんな、損得や保身のためでなく、自分の信念と尊厳をかけて戦う人々のドラマは、性別も人種も国籍も関係なく普遍的に人々の胸を打つことができると思う。だからこそ、印刷機が稼働し新聞社全体が揺れ出すクライマックスは、まさに普通の人間たちが強い信念を武器に巨大な事態を動かしてしまう予感に満ちたカッコよさがあった。

 

もちろん、ここで描かれた状況は日本も含め、全く他人事ではないという残念な現実が本作に価値を与えてるのも事実だろう。しかし、練り上げられ、積み上げられた演出や芝居の力で映画はこれだけ面白くなるということを打ち出した点で、本当に素晴らしい作品だと思う。