『ビリー・リンの永遠の1日』

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イラクに出兵した少年ビリー・リンは、戦地で敵に囲まれる上官を単身助け出しているところがたまたま撮影され、話題になったことから祖国で英雄として讃えられる。そんな彼と部隊の仲間たちがアメリカに一時帰国し、アメフト最大のイベントであるスーパーボウルのハーフタイムショーに出演することになる。

 

アン・リーの最新作にして豪華キャスト多数出演にも関わらず、アメリカ本国では評価も興収も良くなかったらしい。観終わって思わず「そりゃそうだ」と納得してしまった。それは、作品の出来が悪いからではなく本作が「アメリカ人が見たくないアメリカ」をまざまざと観せつける映画だったからだ。同じように実績ある有名監督の新作で、豪華キャスト共演の期待作でありながらコケてしまった『ダウンサイズ 』も「アメリカ人が見たくないアメリカ」映画だった。個人的には『ダウンサイズ 』と並んで今年観た映画の中では、とても感動した映画だった。

 

本作はスーパーボウル会場でのドラマと戦地の回想が並行して描かれ、やがて英雄的行為をした決定的な記憶へと向かっていく、そんな作劇で進んでいく。

帰還兵や英雄の苦悩を回想を交えて描いた映画は、最近のイーストウッド監督作品を代表にして数多くあるが、本作はアメリカ国民の熱狂に湧くスーパーボウル会場を舞台にしたことで、主人公と仲間たちが商業主義によって残酷に消費されていく様が描かれていく。これが類似作品にはない本作独自の鮮烈でオリジナルな魅力だと思う。

彼らの物語を映画化するため、大会社と電話で交渉をしまくるエージェント(演じるのはクリス・タッカー!)が常に同行し、一見彼らをもてはやし優しく接するようでいるが、その目的は金儲けのためでしかない。

会見の場でビリーたちは記者から「夜は眠れますか?」「この戦争でアメリカは何を得たと思いますか?」「敵を殺してどうでしたか?」と聞かれ、スターのアメフト選手たちに会えば「デカイ銃をぶっ放すってどんな感じ?」と聞かれる。全てがあまりにくだらない。

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大好きなロンリー・ガイこと、スティーブ・マーチンフットボールチームのオーナーを演じているが、彼はアメリカ的資本主義の最悪な理屈でビリーを私物化しようとする。目が常に死んでいて本当に嫌な人物だった。

 

ビリーはチアガールの女の子とふと目が合い、二人は恋に落ちる。が、彼女はビリーの英雄としてのパッケージを好きでしかないことが次第に分かっていく。

誰もがビリーと、その仲間たちのことを「英雄的行動をしたヒーロー」としてしか見ない。そして、その彼らの活躍を「アメリカのためである」とかヒロイックに解釈し、綺麗事とおためごかしの下都合よく消費する。

アホな若者たちが「お前らの中にゲイはいるか?」などと揶揄ってくると、カッとなったビリーたちは彼らの首をしめて面白半分に落としてしまい、若者たちは本気で恐怖に慄く。もちろん悪いのは若者の方なのに、ビリーたちは全くスッキリとしていない。祖国であるにも関わらず、ここには彼らの居場所がない。

そして、この場所には彼らに対する真の尊敬や心遣いなんてものもまるでない。だからこそ本番のハーフタイムショウでは、火薬の派手な爆発音とミサイルを模したロケット花火で帰還兵たちを取り囲むなんて、悪い冗談でしかないことをやってのけてしまう。ここに来て、それまで能天気に騒いでいるように見えた兵士たち自身も針が触れてしまい、偉そうに指示をするスタッフに殴りかかったりと暴力的になってしまう。

ビリーの回想もハーフタイムショウの狂乱によって、ついに上官を助けた「英雄的瞬間」へと向かっていく。そこでいざ観客に見せつけられるのは、名前もわからないイラク人の首にビリーがナイフを刺し鮮血が広がる無残な光景であり、そして結局、助けることができなかった尊敬する上官の死に顔だ。主観視点だからこそ、画面にどアップで向けられるヴィン・ディーゼルの虚しい死に顔が目に焼きついて仕方ない。

 

本作を観ていてポール・ヴァーホーベンの『ロボコップ』と『スターシップトゥルーパーズ』を連想した。立ち込める戦意高揚の雰囲気や、戦争も娯楽として都合よく消費する感覚は『スターシップトゥルーパーズ』を、資本主義を代表とする巨大な力によって個人のアイデンティティが潰される感覚は『ロボコップ』を連想した。その二作と本作も異国人の監督から捉えたアメリカの姿としても共通していると思う。 

ちなみに『ロボコップ』も『スターシップトゥルーパーズ』も主人公が実は死んでいるんじゃないか?という風に見ることもできる物語だと思うのだけど、本作もそう見える。主観視点の多用と、ほとんどの登場人物がビリー個人の本心には関心を向けないことで、ビリーも観客もまるで生きている心地がしない。もしかして、上官を救出に行った時に彼も死んでいて、今見せられているフットボール会場での物語は彼の妄想などではないか?そんな気までしてきてしまう。

本作の特徴は全編のほとんどがビリーの主観視点で撮られていることだ。登場人物たちがビリーに話しかける時は、カメラ目線で画面に向かって話しかけてくる。これによって、ビリーと同化する感覚がより強固になり、取り巻く状況の違和感や薄っぺらさが痛烈に伝わってくる。最新鋭の4K撮影による必要以上にクリアな画や、劇場公開時には3Dで上映されたというのは、その主観視点による没入感を高めるためのものだったと思うから、それらの技術が完璧に再現できる視聴環境でいずれ観たい。

 

最終的にビリーは戦地に戻るか祖国に留まるかという選択の末、戦地に戻る方を選んでしまう。これはとても愚かな行為に見える。なぜなら、彼は間違いなくPTSDを患っているだろうし、戦地に戻ったところでさらに悪いことしか待っていないのは明白だからだ。それに、このまま戦地に行ったきり二度と祖国に戻ってこれないのではないか。終盤、ビリーを一個人として大切に思っている唯一の人物と思われる姉と交わすあの会話が最後の別れになってしまうのではないか、そんな予感もしてしまった。しかし、彼が戦地で負ってしまった責任や仲間たちとの友情はかけがえがないものであり、それは紛れもない事実だ。それに、彼ら自身が言う「こんな祖国にいるくらいなら戦地にいる方がマシ」という言葉は、映画を最後まで観た観客にも痛感できてしまう。

ラスト、どこにも居場所がない彼らが車中でお互いに言い合う「愛してる」の言葉は真実だからこそあまりに切ない。だからこそ鑑賞後もズシンと尾を引いて、彼らのその後を考えざるを得なくなる。

 

ちなみに本作は大好きなこの番組で熱く語られていたため観たのだった。この番組は日本ではマイナーな作品とその関連作品などを数多く紹介する番組ですごく貴重で勉強になっています。


炎のディスクコマンドー 第166回 『ビリー・リンの永遠の一日』