『アントマン&ワスプ』

本作に限らず最近のマーベル映画全般、会話シーンがとにかくつまらないと思う。ただ向かい合い喋っている人物をバストサイズくらいで切り取って、工夫の無い編集で繋いでいるだけに見える。マニュアルでもあるかのように決まりきった見せ方。本作で言えば、敵役であるゴーストが身の上話を明かすところがそれに当たる。そもそも、ゴーストが自分にとっては辛い身の上を積極的に主人公たちに話し出すのは唐突に感じたうえ、それを聞いている主人公たちが、単に黙ってゴーストの話が終わるのを待っているようにしか見えないのもあって、観ていてボーッとした。つまらないと台詞も頭に入ってこないから、ゴーストのドラマが伝わらない。派手な見せ場で見せる映画ほど、静かな会話シーンの演出にこそ工夫を凝らして面白くしなければいけないのに、そこを真剣に考えないからドラマを豊かにするはずの会話シーンが段取りに成り下がりつまらなくなる。

かろうじて面白いと感じられる会話シーンというのも、観客がすでに見知っている人気のキャラクター同士が馴れ合い的な交流をしているだけで、本質的にはドラマもへったくれもないものだったりするのだけど、しかし、それが今ではドラマとしての役割を果たしているのかもしれない。それは、自分には物足りないっす。

 

あと、マーベル映画全般の画のルックに関しても、マニュアルがあるかと思えるくらいどれも同じように感じる。具体的にいえば、映画というより一昔前のテレビシリーズのような、画面内全体に照明がハッキリと当たっている安っぽいルック。CGの質感や大きな見せ場の絵作りもいつも同じように見える。だから、いくら特色ある監督の人選をしてもそれぞれに個性を感じない。会話シーンのつまらなさというのもこういったことに起因しているのだろう。もしかしたら、マーベル映画は本当にマニュアルのようなものを用意し、すべての作品に共通性を持たせているのかも。でも、その共通性に高級感や創意工夫を感じないから、最近のマーベル映画を観ていると、立派な作品というより商品を観ている感じに襲われる。そういうマーベルのマニュアルに添えない監督が降板をしていくのが目に浮かぶ。エドガー・ライトもそういうのを味わったのだろう。

そういう意味ではDC映画の方が作品としてのそれぞれの特色や大作としての高級感はあると思う。先日『ジャスティスリーグ』を観たけど、カメラワークも編集もCGの質感もきちんと拘りをもって描かれている感じがして、少なくともルックに関してはマーベル映画よりもひとつの作品らしいとは思えた。

 

本作だけの気になった点としては、序盤が状況説明に終始してもたついている感じがした。それは、アントマンが単独で出演した『シビルウォー』からの物語を引き継がなければいけなかったということと、加えて、本作のいちばんの目的が敵を倒すという明確なものではなく「特殊な状況下にある母親の救出」というミステリー要素も加わったものである以上、仕方ないことなのかもしれない。でも、この設定によりありがちな勧善懲悪になっていないのは魅力だと思うし、本作のライトなコメディテイストに合ってると思う。

しかし、ミシェル・ファイファー演じる母親は存在感あってカッコいいけど、量子世界という異常な場所に30年間も閉じ込められておきながら、再会シーンにばっちり化粧をした姿で登場したのは流石にどうかと思った。

自分の願望としては、あの世界に閉じ込められたことで狂ってしまい、怪物になる人間がどうしても観たかった。そんな人間が悪役だったら強いと思う。

そこで敵役のゴーストが使えると思った。彼女があの特殊能力を手にした原因を、過去のあんなよくわからない爆発事故ではなく、母親のように量子世界に長く閉じ込められてしまったからだ、としたらどうだったろう。そうすれば、主人公たちがゴーストと対峙し身の上を知ったとき、量子の世界に閉じ込められたら決して無事ではいられず、母親もゴーストのようになっているかもしれないというサスペンスが生まれる。だとすれば、クライマックスで無事生還した母親が、同じような能力を持つゴーストを救う展開もより感動的になるのではないかと思った(ゴーストと対比されることで母親の精神の強さというのもさらに際立つのではないか)こうなれば、ゴーストの説明にもそこまで時間がかからないのかもと思ったけど。なんにせよ、母親とゴーストは魅力的なだけに、もっと描いてほしいキャラクターだった。

ただ、自白剤ギャグからは本当に楽しかった。クライマックスのカーチェイスをしながら繰り広げられるお宝取り合い合戦も最高だ。こういう明確な見せ場がもっと序盤からあれば良かったと思う。