『ボヘミアン・ラプソディ』

いわゆる「ショウビズもの」の定型をなぞっただけのような物語は凡庸に感じた。フレディー・マーキュリーという、まさにフィクションのようにドラマチックな人生を送った人物を扱っておきながら、映画として凡庸なのは勿体なくないか。もしくは、言い方は悪いけど、あまりにも出来すぎた人生すぎて、いざ二時間の劇映画に纏めてみると、よくあるものに見えてしまったということなのか。

定型を飛び越えることが出来なかった原因は脚本の作劇にあるけど、演出にも大いに問題があるように思う。演出は総じて紋切り型で、悲しいシーンでは、役者にただ悲しい芝居をさせて、楽しいシーンではただ楽しい芝居をさせていて、どのシーンも単調な絵解きに見えてしまう。カメラワークと編集も単調だ。基本、人物を単独のアップで切り取り、人物が喋りだしたところで映して、喋り終わったところで律儀に切る。重要なことを言う時は、ほぼド正面からカメラがゆっくり人物に近づいていく。ほぼ全編これで、演出にメリハリやこだわりを感じない。これはブライアン・シンガーの監督作ほぼすべてに感じることだ。シンガーは撮影中にトラブルを起こして途中でクビになったらしく、デクスター・フレッチャーが後任の監督をしたらしいけど、フレッチャーが監督した『イーグルジャンプ』も同じようにメリハリのない映画だったから、演出の単調さは統一される結果となった。

しかし、クライマックスは案の定感動的だった。楽曲の力との相乗効果で、凡庸な物語が物凄いドラマに昇華されるカタルシスがあったように思う。それを成し遂げるのは、音楽映画としての義務だけど、まさにクイーンの楽曲と同じような、全てを吹き飛ばす力強さが、ここには間違いなくあった。

 

ちなみに映画館で観た際、本編終了後に場内が明るくなると自然な拍手が起きた。拍手が終わるとどこからともなく「いま、最初に拍手した人、グッジョブ」という声が聞こえてきた。その声はその後もなんか色々なことをぶつぶつ言いながら、自分が座る最前列の方まで近づいて来た。声の主は還暦過ぎていると思われるオヤジで「俺も一曲歌う。アーティストはこれくらいやんなきゃダメなんだ」とかなんとか(他にもとにかく色んなことをぶつぶつと)言って、「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」の独自翻訳による日本語バージョンを熱唱しだした。「お~れたちはチャンピオン~♪」と歌うオヤジを、自分は座って見守るほかなかった。見守ったのは、この圧倒的に不利な状況下、たったひとりで歌いだしたオヤジに感心したのもあるけど、それ以上に、自分の目の前で歌われた以上、立ち上がることが出来なかったからだ。オヤジは最後の方は声が掠れて出なくなりながらも、なんとか歌いきった。ようやく終わったかと安心して席を立とうとしたら、オヤジは続けて天国のフレディー・マーキュリーを追悼しだすと、どんどん今年死んだ著名人(ほぼ日本人)にまで広がりだし「天国の津川正彦さんにも捧げます....」と言い出したあたりから「やっぱり立ち去するべきだった」と強く思った。しかし、津川雅彦を追悼して本当にようやく終わった。自分を含め最後まで見守り続けた数人は拍手をするほかなかった。新宿tohoのTCXスクリーンを五分間、自分のコンサート会場にしてしまったオヤジはすごく満足したようで、終わった後は、他の劇場から出てきた関係ない客にまで「ありがとう!」と言っていた。こうして『ボヘミアンラプソディ』のことを思い出すと、このオヤジのことまでセットで思い出すようになってしまいました。