『グリーンブック』

胸がすくようないい映画。胸だけでなく腹も空く映画。飯が美味そうな映画は良い。70年代の日本映画は飯が美味そうなのが多かった。特に東映の映画は凄かった。『仁義なき戦い』シリーズのどれかに登場した犬鍋、『脱獄広島殺人囚』のラストで道端に落ちてる大根(松方弘樹は豪快にかじりつき豪快に吐き出す)。重要なのは食い物それ自体は全く美味しそうでは無いこと。しかし魅力的なキャラクターが豪快に食っていることで美味そうに見える。その頃の日本映画の食に対する貪欲な描写は、作り手たちが戦時中に飢えを経験したことが関係しているのだろう。

 『グリーンブック』に登場するホットドッグ、デカいピザ、りんご、フライドチキン、どれも単体では全然美味そうじゃないのに、ヴィゴが下品にかじりつくと尽く美味そうで仕方ない。それはヴィゴ演じる彼もまた戦争を経験し、あらゆる死地を自力で潜り抜けた人物であることと無関係ではない。食欲の強さにそいつの生き様というのが表れる。そして下品で暴力的でがさつな人間というのは、映画で観るとどうしてこんなに痛快なのだろうかと改めて思った。いくつかあるヴィゴの暴力シーンはどれも、彼があまりにも喧嘩が強いため一瞬で片がついてしまうのが生々しくてカッコよかった。

ヴィゴに限らず登場人物がみな魅力的なのが本当に素晴らしい。主人公二人や家族に関わらず、旅の道中で出会う嫌なやつ、差別者にいたるまでみなきっちりと実在感がある。実在感があると善悪を超えてそれだけで魅力的に映る。

どんな人物であろうと全てのキャラに実在感があるのはまさにファレリー監督作品らしさだ。細かな人物に至るまで全員が確かにそこに存在し、それを至極当然のこととして尊重している世界観。ファレリー作品に普通の映画ではまず出てこないであろう障害者を始めとするあらゆるマイノリティが登場し、類型的な役割や善悪などに収めずに描くのは、そういう真摯な姿勢の表れである。

どんなキャラクターでも実在感をもって描ける手腕は映画監督にとって最も大事なことだと思う。どんなに脚本が良く書けても、どんなに映像をセンスよく撮れても、その中に映っている人物を魅力的に描けないと、それだけでつまらない映画に感じる。逆に言えば脚本と映像が大したことなくても、人物が良ければたちまち面白い映画になることがある。それは正に70年代のメチャクチャな東映映画や東宝や松竹の中身はいつも同じなプログラムピクチャーなども証明していることだと思う。

とはいえ本作は物語も素晴らしい。さりげない台詞のやりとりや伏線回収から観客に想像の余地を与え、表面上はベタで陳腐な印象を残す物語に豊かな奥行きをもたらしている。それによって説教臭い綺麗事と政治的主張、テーマに終始しかねない題材を、普遍的な感動をもたらす誠実な人間ドラマのに昇華することが出来ている。

たとえばラスト。それまでは主に「主人公二人の交流のための道具」として機能していた手紙が、ヴィゴの妻の一言によって新たな機能を果たす。それによって彼女が二人の旅をどう思っていたのか、会ったこともなかったドクターシャーリーとの交流など、劇中では直接描かれていない彼女の心情やキャラクターまでもが遡ってハッと広がり「主人公の帰りを待つ妻」という一歩間違えれば物語上の役割にしか収まらないところを見事にとび超えてみせる。これぞ真っ当な映画でありドラマだと思いました。