『レディ・プレイヤー・ワン』

作品の結末と核心に触れるネタバレをしています。

 

本作には様々な既存のキャラクターが大挙して登場するが、その全てに物語的な感動は一切無い。作り手たちはクライマックスでガンダムが登場する展開を盛り上げたかったようだが、しかし結果は全く盛り上がらない。かろうじて、主人公がピンチの時に登場するから盛り上がるように見えるが、それは瞬間的な盛り上がりに過ぎないから大した効果はない。本当に盛り上げたいのであれば、ガンダムに変身する日本人の彼が、なぜガンダムになるのか?そして、ガンダムになることで彼はどのような変化や成長を遂げるのか?そういったドラマを仕込まないと物語的に深い感動は訪れない。

 

それと同じ問題がクライマックス前、主人公の演説によって大勢のプレイヤーたちが加勢する展開にも当てはまる。なぜ彼らが加勢してくれるのかという、大事なことをきちんと描かないから、加勢が全く盛り上がらないのだ。あの、大勢のプレイヤーたちが普段から悪の企業の圧政を感じていたようには思えず、むしろ順応していたように見えた。そんな彼らがどうして突然、立ち上がろうとするのか?理屈を描かなくたって演説自体がカッコよければまだノレるが、あの演説自体は平凡なものだった。こうなってしまうと、結局プレイヤーたちが駆けつけるのは主人公にとって都合がいい展開でしかないように思える。前述したガンダムの登場含め、作り手であるなら、ここを盛り上げ、感動的にするためにはどうしたら良いのか、最大限の知恵を振り絞って懸命に考えなければならないのだが、おそらくその知恵を振り絞るのを放棄したのだろう。

なぜなら、そんな物語的な作劇なんてなくとも、プレイヤーたちが既存の有名キャラクターの姿となって登場すれば、それだけで観客は盛り上がってくれると見越していたからだ。そして、現に本作がこうして世界中で熱狂的にウケている以上、作り手たちのその目論見は大成功だった。実際その通りになってしまったのだ。それで、観客が感動するのは全く構わないが、作り手がその程度のレベルであっては絶対にならない。作り手は常に観客の上を行かなければいけないし、観客にすり寄ってはいけないと思う。

 

※4月24日追記 そもそも、大前提として本作に登場する既存のキャラは全てプレイヤーが操作しているのであって、作品内から抜け出た本物ではない。しかも、そのプレイヤー自体に大したドラマが無いとなれば、キャラクターは中身が空っぽの「パーツ」のようなものでしかなくなってしまう。だから、作品のコンセプトは似ていても『アベンジャーズ』や『エクスペンダブルズ』などのような、本物が一堂に集まることの特別感から生まれる感動なんてものもある訳が無い。

 

だから、いくらアイアンジャイアントが登場しようが、『シャイニング』の世界に入ろうが、何をしようが、どうあがいてもそれらはギミックや出オチの域を出ない。だが、厄介なのはこれほど既存のネタを全編ぶち込み、しかも、それを物語の目的やテーマと直結させてしまった映画というのが過去に存在しないため、本作には唯一無二の価値が生まれてしまっている。そのため、既存のネタに頼った同人誌的な映画でありながらも、空虚なものに仕上がるのを回避している。これはとても巧妙な手だと思う。

 

そういった所にたとえ価値や魅力が存在したとしても、本作の物語自体はあまりに古臭いご都合主義で進んでいってしまうため、本当につまらない。

序盤、主人公は創設者がした過去の些細な発言から、鍵に繋がるヒントに気づく展開があるが、疑問に思うのは、創設者が死んで5年間、誰一人気付けなかったヒントになぜ主人公だけが気づけたのか?本作を観る限り「だって主人公だから」という理由でしかないように思える。もちろん、主人公だから気付かなくてはいけないのだが、作り手がそれに甘んじて知恵を使わない以上、ベタな展開というのはただの御都合主義に成り下がる。

例えば、主人公が創設者の過去の些細な発言から手当たり次第にヒントを読み取りまくった結果、すでに何度も失敗していて、周りの人間からもそのことをバカにされている状態だったりしたとする。それでも挫けずに創設者の発言からヒントを読み取り、それで、件のレース場。ダメ元で逆行してみたら、半ば偶然も相まって的中してしまったとかなら納得できるし、主人公の特別性やカタルシスも増すのでは無いかと思う。

そもそも、現状のクリアの仕方は主人公がなぜか確信に満ちているので、まるで盛り上がらない。逆行して壁にぶつかりに行ってるのだからあの挑戦には、もしかしたら死ぬかもしれないというリスクが伴っていているはずだ。なら、もっと主人公が意を決して臨む感じが必要であり、特に壁にぶつかる直前は、例えば、思わず目をつぶって歯を食いしばってしまうとか、そういう芝居がひとつあるだけでも、だいぶ印象は違うと思う。そういう工夫の積み重ねがベタな展開を面白くすると思うのだけど。

 

プレイヤーたちは現実世界でのお互いの素性と顔を一切知らないため、現実で実際に相対する展開は非常に感動的なものになる。これは物語的に非常に美味しいポイントだ。しかし、本作はそこでもまるでダメだ。

特にヒロインは「現実の私を見たら失望する」と主人公に言っていた割に、実際の姿は普通に美人でアバターの姿とそんなに大差ない。あのアザでコンプレックス描写のつもりかもしれないが、そんな小細工は正直あざといものでしかなく、現実とのギャップをあんなに匂わせといて、そんな程度なのと思う。そこまで言うからには、例えば身体に障害があるとか、それくらい現実との落差があれば、彼女の仮想世界とそれに比例した現実世界に対する強い思いといったものを観客は想像ができ、キャラクターはより深いものになっただろう。あと、この手の映画に登場するレジスタンス組織が、悪の組織のカッコ良さに比べると圧倒的に貧乏くさくてダサいのもいい加減にしてほしいと思う。

ヒロインの容姿が結局美人なことで、どうしても考えてしまうのが、主人公は彼女の実際の姿が美人でなくとも本当に好きでい続けただろうかということ。そもそも、あのアザを見て「僕は失望してないよ」なんて彼女に対して失礼な発言だ。失望しないのは、人として当たり前のことだ。ともかく、そんなアザ程度で主人公の優しさと、彼女のマイノリティさを表現したつもりなら、作り手はその乏しい想像力の痛々しさを自覚した方がいい。

その点、主人公と親友の彼女が出会った展開は、アバターと現実との意外性とセリフの伏線による盛り上がりがバッチリ一致していてとてもグッときた。

 

ご都合主義にさせないためには、当然ながら主人公にとって起きて欲しくないことをたくさん仕掛け、どれだけ彼を(ということは、すなわち物語を)追い詰められるかが勝負になる。

本作の展開上、主人公に対する最も巨大で派手な追い詰めは、おばさんとおじさんが殺されることだろう。しかし、あの二人は主人公にとって印象がよくない人物であるから、死んだところで主人公もそして観客もまるでショックではない。あの二人は、その場の盛り上げのためだけに死んだキャラクターで、一体何の意味があったのだろう。

おそらく、この物語で真に主人公を追い詰めることが出来る展開は、ヒロインの死だろう。現実の人生に唯一の価値をもたらした彼女が死んでしまった時に、主人公の物語は本番を迎え、本作は深いところに到達できたのではないか。しかし、クライマックス、現実世界の彼女を助けるために、アバターの彼女を主人公が殺す展開を用意していることから、実は作り手も主人公の成長を描くうえで、ヒロインの死が重要であるということには気づいていたのではないかと思う。追い詰めといえば、彼女が強制収容所に入れられてしまう展開はあるが、結局あっさり救出できてしまうため、あれは追い詰めのうちに入らない。彼女の父親は強制収容所に送られて死んでいるため、あの展開はもっと恐ろしいところに踏み込めたと思うのだけど。

 

ご都合主義の最たるものであり、許せなかったのは悪役の末路だ。彼は悪の大社長でありながら、自分では手を汚すことができず、そのことを腹心の部下(彼女はカッコ良かった)に責められる展開があるくらいの卑怯者だ。そんな彼がクライマックスついに拳銃を手に取り、自分にとっては卑劣な悪役である主人公に立ち向かう。これは、観客の感情移入なんて抜きにして、純粋に物語として盛り上がる大事な大事な展開だ。これによって誰かは命を落とすはめになる。主人公か?ヒロインか?仲間か?いずれにせよ、引き金が引かれたことで、主人公も悪役もさらに追い詰められ、物語のハードルはグッと上がる。

なのに、どうして彼は銃を下ろしてしまったのか?俺の期待が外れたから怒っているのではない。銃を下ろした理由が「だって、主人公には死んで欲しくないから」というものにしか見えないから怒っているのだ!撃たないのであれば、どうして彼が変化してしまったのか、それまでの物語の描写としてきちんと見せてくれなければ感動はできない。彼もかつては純真にゲームを愛していた人物であるということなのか?実際、彼は元々創設者に憧れていたらしいことが一応説明されるが、しかし、インターンとして創設者の下で働いていた時からすでにプレイヤーのランク付けや課金システムを提案し、創設者から相手にされていなかった。つまり、彼は創設者の志ではなく支配者としての立場に憧れていたということだろう。この描写によって彼は根っからの悪役として設定されたため、かつての純真さが蘇ったとかそういうことは通用しなくなる。

例えば、彼がイースターエッグのアイデアに一枚噛んでいたとか、なんならあの手袋から漏れる光のシステムを提案した本人であったとか、そういうことを描いておけば、銃を下ろす展開にも感動したかもしれない。しかし、観客が憎むべき悪役にしたいがために、過去の描写でも根っからの悪役として設定したにも関わらず、主人公のためのご都合主義で唐突に改心させてしまう。あまりにも安易だ。

ただし、スピルバーグはそういう理屈をすっ飛ばして、映像で感動させることが出来る演出家である。過去作で言えば『未知との遭遇』の巨大UFOから放たれる強烈な光にはそういった映像的説得力があったが、手袋からちろっと漏れるあんな光に映像的なパワーはないから、結局安易なものにしか仕上がってない。こうして、悪役の中でせっかく立ち上がった本気の信念は、ご都合主義のために犠牲になったのだ。あんなことが出来るのは彼を「陳腐な悪役」として作り手が安易に割り切ってしまったからで、それは、彼に対する敬意を欠いた無神経極まりない傲慢な行いだと思う。

 

本作が最終的に帰着したテーマは、色々な感想などを読むとどうやら「ポップカルチャー、エンターテイメント賛歌」ということらしい。確かに、終盤セリフでもそんなようなことを唐突に喋り出すため、なんとなくそんな気はする。しかし、物語は後半に進むに連れて、主にアンブリン作品を代表とする、80年代ファミリー映画を思わせるお気楽さや単純さが悪しき形で強くなっていくため、映画自体の出来は古臭いノスタルジーで止まってしまった。そうである以上、少なくとも自分はこの映画からエンターテイメントに対する敬意や賛歌などは感じなかった。

ラスト、仮想世界の管理者になった主人公が「週に二日は休みの日を設けて、現実も大事にするようにしました」というようなことをナレーションで語る。創設者は「現実でしかうまい飯は食えない」とも語っていた。正直、そんな「食器を使ったら必ず洗いましょう」レベルの観客もすでに知っている当たり前のことを、わざわざ映画で伝える意味はあるのかと思った。