『ミッション・イン・ポッシブル フォールアウト』

物語は混乱しているうえに雑極まりない。だから、いくらアクションの物量とトム・クルーズ本人のスタントが過酷そうでも、映画としての効果をまるで発揮しない。

たとえば、イーサンがロンドンの街を全速力で走り抜けるシーン。もう一度書くけど「トム・クルーズ本人のスタントが過酷そう」なのは十分すぎるほど伺えるが、あのシーンで起こっていることは「ものすごく危機的な状況にあるにも関わらず、なぜか呑気に歩いてる敵を追う」というもので、物語的には緊迫感の欠片もない。

クライマックスのヘリチェイスも核爆弾の起爆装置を持って逃げる敵を追う、というシチュエーション自体に独創性がさっぱり無い(実際『ゴーストプロトコル』の焼き直しにしか思えない)という弱さもさることながら、そこでイーサンがいざやることにとても引っ掛かる。彼は敵のヘリに巨大な貨物をぶつけようとし、それが失敗すると自らのヘリごと体当たりを何度も試みて、そして実際に体当たりをしてしまうのだけど、これではまるでイーサンの目的が、重要な起爆装置なんて構わず、敵をヘリもろとも破壊しぶっ殺したいというものに見えてしまい、緊迫感を殺いでしまっている。観客をアクションシーンでハラハラさせるためには、いま、この状況下で何が目的とされ、そのためにどうしなければならないかという基準とセッティングを、物語上できちんと明確にする必要があり、特にクライマックスなら尚更だ。だから、こういった引っ掛かりは決して些細なことではない。しかし、本作の見せ場の大半はそういった大事なことを曖昧にしたまま強引に押しきろうとするものばかりで乗れない。これは本作の撮影を脚本が無い状態で行き当たりばったりにしてしまったことで起きた事態だろう。

 

で、先日あるラジオ番組の映画評論で本作が扱われていた。パーソナリティは本作を好評価しており、いわく「トム・クルーズはアクション映画史においてバスター・キートン、ジャッキー・チェンと並ぶか、超えるほどの存在」と言っていたが、この発言にすごく違和感をおぼえた。バスター・キートンとジャッキー・チェンはトムのような、ただ危険で体当たりな負担の多いスタントのみがスゴいんじゃなくて、常人には再現不可能かつ唯一無二の体技が真にスゴいんじゃないかと思う。特に、ジャッキー・チェンの格闘は人間離れした俊敏さと独創性を兼ね備えたまさに唯一無二のものになっている。ブルース・リーだってそうだ。実際、彼らはその後の映画史において誰にも完璧には真似されず、後継者も出現しなかったのがその証明だと思っている。しかし、トム・クルーズのアクションはトム本人が受ける過酷さや負担が(観客が心配になるという意味で)スゴいのであって、先の彼らのように映画として独創性ある唯一無二のレベルのアクションにまでなっているかと言うと疑問が残る。それでも、まだ『ゴーストプロトコル』での高層タワー壁面の駆け回りや『ローグネイション』での離陸する飛行機へのしがみつきは、カメラワークや編集などを含めた見せ方や、物語的な必然がきちんと兼ね備わったことで唯一無二のものになっていたと思うが、そういう演出と物語の知恵を感じず、ただ過酷さ加減でスゴいスタントの物量のみで押しきる本作でのアクションは(何度も書くけどいくらトム本人が過酷な目にあったとしても)無難なものにしか感じない(逆にキートンやジャッキーの映画に物語の必然やうまい演出が不足していも、本人の体技がスゴすぎるため超越した価値が生まれてしまう)

だからこそ、本作がウェルメイドな映画としての完成度は低くても、アクションが凄まじいからOKには決してならないし、そもそもゴーストプロトコル、ローグネイションとアクションの凄さとウェルメイドな完成度も備えたものを過去二作で見せられた以上、本作の力押しで強引に乗り切る感じは、レベルとしては退化したものだとしか言いようがない。

 

ちなみに、そのパーソナリティは「ここまで体を張るトムを観客は拝んで見ろ!」と言っていた。こういう発言をさせざるを得なくしてしまうのも本作の問題だと思う。

今回のイーサンのキャラは今まで以上に、ものすごく善人感を出しすぎだった。しかもそれを物語のテーマに中途半端な形で据えていることもあり、マジでトム本人が拝まれることを望んでいるような押し付けがましさを感じてしまった。実際、メイキングなどで見せる彼の魅力的な姿から、現在のトムがスターとして聖人のような域に達していることは分かるが、それを物語本体には組み込んでほしくはないし、だいたいそれがフィクションとしてさっぱり面白くない。

前二作で押し出されていたイーサンの変人感や独りよがりの危ない奴感、それを周囲の仲間が少し冷めた目で見ることから醸し出されるユーモアによって、観客との一定の距離が保たれていた感じが自分は好きだった。しかし、本作でのイーサン・ハントとトム・クルーズの存在を完全にイコールにし彼の聖人感を物語内でも強調するのは、観客に作品の舞台裏を積極的に読み取らせ物語の欠点があっても、都合のいい解釈をさせかねない点において、とても危険なことだと思う(劇中やたらとイーサンが言う「いま考え中!」という台詞も舞台裏の行き当たりばったりを現しすぎていて安易だ)

そんなことを考えていたら先日、こんな記事を見つけた。

theriver.jp

正直、悪役をきっちり信頼させといて裏切らせ、中盤で観客に失望も含めたショックを与えることが、娯楽映画としては真っ当だと思う(そもそも本作の悪役は最初からアホにしか見えず信頼なんて出来なかったことは置いといて)だけど、トム・クルーズはあらかじめ観客が想定している範疇に合わせる方を選んだ。観客をいい意味で裏切らず、あくまで自ら映画ファン、オタクの代弁者であり続けるようなこの姿勢に今後のトム・クルーズへの不安が増してしまった。

 

しかし、観客の期待やあらかじめ抱いている価値観、想像力を超えず、むしろ積極的にそこに応え、映画の側から客席にすり寄っていく感じは、昨今の主流になっている映画全般に感じることだ(だから、最近の映画は真に観客を驚かせたり、居心地を悪くさせたりするようなことをしなくなってる)そのたびに、こんな態度は大人げないとは思いつつも、映画ってこんなもんでいいのか!と残念な気持ちになってしまう。