『インクレディブルファミリー』

登場する悪役の目的や背景が興味深く描かれるだけに、物語上の説得力にまるで欠けていることに引っ掛かってしまった。

悪役の目的というのは、ずばりヒーローの根絶。それ自体は普通だが、その理屈が「人々はヒーローの存在に頼り過ぎるがあまり、受動的になって堕落しているから」なのだと。悪役をそんな思想にさせる背景には、かつてヒーローを支援していた両親の存在があった。両親はいつでもヒーローに助けを求められるよう、専用の直通電話を置くほどであった。そんなある日、自宅に強盗が入り、ヒーローに助けを求めるが、しかしその時がヒーロー禁止法の執行直後であったため、当然電話には誰も出ることが出来ず、自衛手段を持たない両親は無慈悲に殺されてしまったのだった。つまり、人々を能動的にさせるためには、ヒーローの存在を消し去らないといけないのだと。

これが今回の悪役だけど、まず「人々はヒーローに頼りすぎて堕落している」という理屈は、実際に人々が堕落しているという描写や展開が劇中ひとつもないため成り立たない。それもそのはずで、今回は主人公であるヒーロー一家が、序盤で街に現れた悪役アンダーマイナーとの戦いで、さらに被害を大きくしたように世間からは思われヒーロー禁止法が強化されたため、失われた信頼を取り戻すために奮闘するというのがメインのドラマである以上、人々がヒーローに頼りきって堕落させる訳にはいかず、悪役の理屈がさっぱり空回りせざるを得ないのは当然なのだ。しかし、これでは本末転倒である。

それと、両親の死の原因を作ったのは、ヒーローではなく禁止法であるはずだ(禁止法自体がヒーローのせいで生まれたというのは置いといて)。だから、復讐すべきはヒーローを規制しようとする側である。そうなれば、悪役はヒーローの復活を渇望し狂信的な程の支持に向かうのではと思う。例えば『アンブレイカブル』のミスターグラスのように、誰よりもヒーローに憧れを抱き復活を望むがあまり、自らが悪役になりヒーローを生み出そうとするような、皮肉な構図が出来上がり一方的な断罪が出来ない深い悪役になると思う。

今回の悪役は主人公たちのドラマとも鏡像を成し、ヒーローの存在意義を問う深いものを投げかけるだけに、それを強固に裏付ける説得力が欠けているのは致命的だ。なので、本作は主人公も悪役もただお互いの主張をぶつけるだけぶつけて一方的に終わるのが引っ掛かる。せめて、悪役の「人々がヒーローに頼って」云々という主張には、やはり主人公がハッキリNO!を突きつけてほしかった。それで最後に堕落していたと思われた市民がヒーローと力を合わせて戦ったりしたら感動もしたのではないかと思う。だけど、劇中悪役がヒロインのイラスティガールに自分の理屈を話し同意を得ようとすると、彼女は「あなただって私に頼ってるじゃない」と、回答にもなっていない冷淡なことを言って、この件が終わってしまう。

だいたい、特別な能力を持っている人間が、特別じゃない人間のためにその力を使うのって当たり前だし、一体全体なにが問題なのかという気がするから、ヒーローならばそういうことを言わないといけないはずだ。

しかし、バードにとっては平凡な一般市民なんか心底どうでもいい、描くに値しない人物なのだろう。だから、常に特別な能力を持っている強者の理屈からしか物語を描けないバードの作家性の根幹にはすごく冷淡なものが流れていると思う。たぶん、彼は特別な人間とそうでない人間ではっきり線引きをしているのだろう。

だから、本作は主人公と悪役が自分の言いたいことだけを一方的に言って、さっぱり交わらず終わってしまう。これはバードが監督した前作『トゥモローランド』でも起きた事態で、二作続けて同じ歪みを抱えた物語になっているということは、本人は無意識に描いてしまっているんだろう。見事な演出の手腕を持っているのだから、脚本には関わらず監督にのみ徹してほしい。