『ミッチェル家とマシンの反乱』すべてが結論ありきの薄っぺらさ

自分が今まで観てきたあらゆるものの中でもオールタイムベストのひとつ『グラビティフォールズ』の演出、脚本チームにいたマイク·リアンダとジェフ·ロウの長編初監督作品だから期待していた。ビジュアルやルックは『スパイダーバース』に続き、他のCGアニメでは見たことない質感のものになっていて、それだけでも見る価値はあった。しかし物語はつまらなく、劇中の家族観も非常に不快なものだった。

まず敵のロボットとそれを操るsiriみたいなAIの描写や設定が本当にいい加減だ。ロボ反乱のきっかけは、AIのPAL(声はオリヴィア・コールマン)がスマートフォン内臓の人型ロボットにとって代わられ、ロボのプレゼン中にCEОから地面にポイ捨てされたことの逆恨みによるものだ。それが世界規模のロボットアポカリプスにまで発展してしまうというのはいい意味でくだらなくて嫌いじゃない。しかし、ポイ捨てされる場面で地面に捨てられたPALが悲しんでいるのをわざわざアップにして映してしまうのが、後の展開を考えると不要だ。ここの悲しんでる表情で観客には反乱のきっかけが分かってしまう。なのに、そのあと実際に反乱が始まると劇中の誰もPALが首謀者であることに気づかない。じゃあ、PALのリアクションを描いてみせたのはあくまでもミスリードであって、首謀者はちがうやつということなのかと思っていると、CEОが首謀者のもとに連行されるシーンで椅子がくるっと振り返り「黒幕は…こいつでした!」的なクリシェを使って種明かしのようにPALが登場する。この展開の流れだと「だからPALが首謀者なのはさっきの悲しんでるアップで分かってたよ!」となるだけだ。観客がすでに分かっていることをあえてくどく強調するギャグのつもりなのか、単に作劇がすっとこどっこいなのかが分かりにくく本当にボケっとしていた。この流れを効果的にやりたいなら、反乱の直前にPALのリアクションを入れてはダメだろう。ポイ捨てされたPALの表情のアップはCEОに反乱の理由を説明するときに、フラッシュバックでも用いて描けばいい。そうして時間差を設けることで、さっきのプレゼン時にPALはひとり傷ついていたというのが遡って分かり、CEОのプレゼン時の言動も翻ってすごく無神経に思えて、PALの言い分にもいまよりずっと説得力が増すと私は考えますがどうでしょうか。

しかしよく考えてみると、ポイ捨てがきっかけなら反乱には計画性がなかったはずなのに、なぜ会社の地下から宙に浮かぶ超巨大基地が現れたり、凶暴な見た目のバトルドロイド的なやつがいるのか。数時間であれだけのものをPALが瞬時に設計し作ったってこと?それ以外にも『Mrインクレディブル』の悪役が武器にしていたのとよく似ている、物体を固めて移動させる光線も、そもそも家庭用ロボットにつけるのは危険すぎるだろうとか、だいたい同じ企業のものなんだから、PALはデフォルトでロボットにもインストールされてもよくて、べつに不要にはならないんじゃないの?とかも考えられて、かなり雑だ。

ロボ絡みでいえば、この映画の致命的な弱点は政府も軍隊も警察も一切出てこないことで、そういった「まともな存在」がまともなやり方でロボに対処して失敗するプロセスがあってこそ、一家の型破りな変人ぶりとやらがロボを倒していけるところに痛快さが生まれ、その変人ぶりとやらにも説得力が生まれるはずなんだけど、一家以外の存在がロボと戦う描写がないことで戦いのカタルシスに欠けている(いちおう、最初のコンビニでのロボ戦では一家以外が続々ロボに捕らえられる描写をやっていたけど)だから、ロボ軍団の弱点になるのが実はケイティが作った自主映画のアホ犬の映像だとしても、彼女の個人的な願望が成就した溜飲下げになるだけで、ロボを倒す手段としてそれがどれほどスゴいことなのか分からないから盛り上がらない(それにこのネタ自体が『マーズアタック』もとい昭和ゴジラ映画のX星人の倒し方以来さんざん繰り返されてるやつで新鮮味にも欠ける)それにあの犬は豚にも食パンにも間違えようがないと思う。

こういった雑さもたとえばロボ反乱を世界中で展開する大規模なものにせず、クローズドにすればある程度は気にならなかったと思う。本作が参考にしていると思われる『くもりときどきミートボール』や『シンプソンズ』劇場版(と『グラビティフォールズ』も)はカタストロフが起きる場所を限定して、余計な説明や矛盾が生まれないようにしていた。

そもそも敵がロボである必然性も実は特に感じない。せいぜい主人公一家の父と娘のテックvsアナログのぶつかり合いを重ねたかった程度だろうけど、ロボの描写は適当だし父と娘のドラマは後述するように恐ろしく薄っぺらいから、ロボじゃなくて宇宙人でも魔鬼のような軍勢でも同じ話が成立するんじゃないか。

といった、いわゆる「突っ込みどころ」ってやつをこのアホっぽいスラップスティックギャグ満載のCGアニメにどうして求めてしまうかといえば、劇中で描かれる世界観というのが少なくともロボ反乱が起きるまでは、今現在の現実とほぼ地続きのものだからだ。本作の企画としての立脚点も、その日常生活がある日突然、非日常的な異常事態に一変することの面白さを狙っている以上、作り手自らが要請したリアリティにきちんと応えていないのは説明不足、考え詰め不足に他ならない。中盤の巨大ファービーが出てきて光線を吐き出したりするのも、ただの出落ち的なオモシロをやりたいがために、リアリティバランスをぶれさせる悪い飛躍にしかなってない。そもそも元からしてファニーな見た目のやつを巨大にして出してくるセンスが、インターネットウケを狙っただけの安易さに感じてしらけた。

ただ、この作り手たちが一番描きたかったのはAIとロボの反乱、そこから発生する世界征服のプロセスではなくミッチェル家の物語だから、ロボはその障壁として割りきって観たとしても、肝心の家族のドラマが薄っぺらい。

そもそも、大冒険のきっかけになるドライブ旅が始まるところからして、私は文字通り乗れなかった。娘ケイティは家に居場所がない(と感じている)からこそ、映画作りを本格的に学べて、仲間もたくさん作れる大学に希望を抱いている。だから1日でも早く実家を出たくて、飛行機で大学までさっさと行って、到着後の友達との予定まで立てていたわけだ。にも関わらず父親はケイティの飛行機のチケットを本人の了承を得ず勝手にキャンセルして、家族総出で車で送り届けることを本人の了承を得ず当日になって勝手に決める。娘の気持ちを一切無視したこの強制行為に、ケイティは当然断固拒否するかと思いきや、嫌がるというよりは困惑ぽい素振りの弱いリアクションで車に乗り込んでしまう。なぜ?飛行機のチケットをキャンセルされたから乗り込まざるを得ないにせよ、ただでさえ父親とは前日に大喧嘩をして(大事な大事な映画作りの生命線になるパソコンまで壊されかける)、いまだ和解(というか親父が謝ればすむことだ)もすんでいない状況なのだから、ケイティは命がけで怒ったほうがいいし、それに絶対に車に乗っちゃダメだ。極めつけは、それまでは一応父親よりは理解があるかと思えた母親の「パパなりに考えたのよ。あなたも歩み寄って。命令よ」というセリフで本当に心底ひどい一家と思った。変人一家じゃなくて悪人一家だ。で、この両親(特に父親)は最後までケイティに詫びることはなく、車で送り届けることを勝手に決めた件も「コミュニケーション下手な父親の不器用な愛情表現」として作り手は良しとしているみたいだ。そりゃケイティは一刻もはやく家が出たいに決まってるぜ。しかし、母親のセリフでケイティは気を取り直すと、ミッチェル家のカメラを回しだし半分自主映画ぽいホームビデオを無邪気に撮りだす始末。しかも父親にもカメラをばんばん向けて、軽く演出をしたりする(実は撮影したものをおそろしく悪意に満ちた作品にまとめるのかと思った)まあ、本人が楽しんでるならいいか…ってならないよ!ケイティがカメラを家族に向けるのに全く納得できないため、このホームビデオが父親の知られざる一面を記録した映像に上書きしてしまっていたことを知る後半の展開で「感動的な」伏線として機能することはなかったし、だいたいこのホームビデオ映像が自分には不快の極みだった。そもそもケイティが上書きをしてしまっていたというのも、映像オタクはそういうのきちんと事前にチェックしないかなとも思うが、まあ作り手の安易さだからおいとく。過去の映像が始まると母親が撮影してるカメラが幼いケイティーのアップからパンして、自分が森の中に建てた念願のマイホームを生まれたばかりの娘のために売却して最後の見納めをしている父親の背中を映すが、その構図といいタイミングといい、これはどこのピクサーアニメーターが作ったビデオだ。どっからどうみても「親の苦労を子供に見せつける」ビデオにしか見えず大変しらける。だいたい子供のために親が自分のしたいことを諦めること自体はべつによくあることとして、その苦労を分からせることで子供に罪悪感を与えて反省させようとする神経は画期的に図々しく気持ち悪い。ここで「あ、この作り手たちは実は父親目線なんだ」と、それまでのケイティに対する無神経さが一気に府に落ちた。

ちなみに上書きしてしまったホームビデオというのが、キャラクターに重要な変化をもたらす展開で素晴らしかったのは、さっきも例に出した『シンプソンズ』の映画版だ。これでは主人公のホーマーが舞台になる町スプリングフィールドに滅亡の危機を招いてしまうが、しかしホーマーは画期的に利己主義なけだものなため一切責任を取ろうとせず、町の住人たちを見捨てて家族を巻き込んだ危険な逃避行をしてしまう。そんなけだものの妻マージは業を煮やしてテレビから流れてくるものにしか向き合わないホーマーへ、ビデオメッセージの形で別れを告げる。しかもそのメッセージは、ホーマーへの怒りでスプリングフィールドの住民たちがシンプソン邸に火をつけ町を逃げ出さなければならなくなったときに、燃え盛る家からマージが命がけで取りに戻った大切な結婚ビデオで、そこに上書きしたものだ。上書きでマージの覚悟を表現するだけでも上手いのに、上書きという性質をいかしてこちらの虚を突く映画的な瞬間が待っている。それを家族に捨てられてたった一人で見ているホーマーの人間臭いとしか言いようがないリアクションが徐々に変化していく様子も含め、台詞も演出も完璧なシーンだ。

しかも、劇場版はクライマックスでバートとホーマーの破綻した親子関係が修復される展開がまた素晴らしい。ホーマーの父親失格人間失格な非常識さでしかなし得ない方法でバートの信頼を獲得するのがまさにシンプソン一家であり、結論ありきで作ったのとは真逆の素晴らしい感動があった。なにより大事なことは、ここでのホーマーは彼なりにバートに精一杯寄り添った結果が倫理的には間違っていたということだからだ。『ミッチェル家の~』の娘に寄り添ったとは到底思えない父親の発する上辺だけの愛情とは、誠実さの格が根本的にちがう。まあ『シンプソンズ』と本作を比較するのはさすがにフェアではないかもしれないけど。

「最終的には親子関係が修復されてほしい。それもケイティが父親に感謝することで」と作り手が結論ありきで描いているから、家族のドラマに説得力がないし、まあ説得する気もないみたいだ。それもすべて「家族は素晴らしいものだ」という一般的な綺麗事を全く疑っていないで物語を考えているのだろう。ラスト、無事大学に送り届けケイティと家族がお別れをするシーンで、父親の「本当の仲間が待ってるぞ」というセリフにケイティが「家族が本当の仲間だよ」と返す饒舌なのに薄っぺらいセリフのやり取りに作り手の姿勢がよくあらわている。

本作を構成する要素の「娘を送り届ける旅」も「すれちがう父娘関係」も「娘は映画作りが好き」も「父親は重度のデジタル嫌い」もぜんぶ結論ありきだから、脚本上いずれ消化することが決まっているタスクという感じにしか思えない。そういうのを観ると自分は「人間の言動をタスクみたいに考えてるんですね」とかなり冷める。登場人物が送った人生の大事な出来事や思い入れのあるアイテムというものをすべて伏線にして、いずれ回収するなにかとしか考えていないようなやり方は物語に対して失礼だと思います。

序盤の喧嘩後にケイティと父親が別々の場所から相手に対して「どうして変わっちゃったんだろう…」と同じセリフを言うシーンもキモくて、両者同じことを言うことで「とはいえ親子」ということしか示せてなく、喧嘩後のすれ違いというものは表現できてない。本当にすれちがっているのなら一方が「どうして変わっちゃったんだろう」と言うのに対してもう一方は「どうして変わってくれないんだ」と言うとか、それくらいの齟齬も描く気ないのか。

ケイティは自分が作った自主映画がクライマックスでロボを倒す武器にもなるわ、牢屋に入れられたCEОも元気づけるわ、親父も感動するわで、全てを一直線になんの変化もなく自分の望みどおりにするだけ。で、この映画自体もケイティが作ったのかもよと匂わせるような、インターネットミーム的映像表現も、すべてその時々のケイティの感情をそのまま説明してるだけに過ぎないから説明過多になっているだけで、自分にはつまらなかった。しかもクライマックスでPALをコップの水に入れて壊すときに、苦しむPALの表情に猿が変な叫びかたをする映像を面白おかしく持ってくるのも、いくらオープニングで父親に使っていた伏線(て言わないとおもうけど)だとしても、はしゃいでるだけで下品に思えた。そういったことは感動とかではなく、お手軽な溜飲下げに近い。

父親にとってもケイティは自分の苦労をわかってくれて、自主映画で自分に対する愛情も表明してくれて、最後には思い出の歌も一緒に歌ってくれてと、お互いがそれぞれ望んでいたことを完璧な形で成就させる。というより自分が変化するのではなく、相手が変化することを待っているような傲慢さも感じる。そうこの映画が描くドラマの帰着はすべて「相手が自分の思い通りになった」というだけだ。ケイティと父親と比較すると描き込みが足りないからすごく存在感の薄い母親と弟の軽いサブプロットレベルのドラマも結局、母親は憧れていた完璧家族から最終的には認められる(そもそも、あのいかにもな上辺だけ完璧家族を、本当に完璧家族としてしか描かないのも薄っぺらい)弟は自分と同じく恐竜好きの女の子と仲良くなれると、父娘同様こっちも自分の願望をなんの変化もないまま一方的に成就させるだけ。ここに自分が感動できるものは一切ない。せめて、自分が望んでいたことが成就するのと引き換えに、別の大事ななにかを失ってほしい。それでこそ物語じゃないか?少なくともこの作り手たちは『グラビティフォールズ』でそれを徹底して描いていたじゃないか。あの作品では最終話にいたるまで、すべてのエピソードで主人公が何かを得ればべつの何かを失う。そうして「人生は思いどおりに行かないのだ」ということを、主人公のディッパーとメイベルは手に入れているのだ。そしてその二人の子供の姿から、ままならない人生を送る大人のキャラクターたち(特に二人のオッサン)はもう一度人生をやり直せることを学ぶ…。って『グラビティフォールズ』のことはいつか必ず書くぞ!

で、極めつけはエンドクレジット。監督マイク·リアンダ本人の幼少時撮影した家族写真を出してきて、ミッチェル家の写真とご丁寧に重ねて矢印で「Real MitchellFamily」と出す。自分の人生をはじめから全肯定することありきで映画を作る姿勢、しかもその自意識を最後に観客にまで共有させてくる神経に寒気が…まあそれはいいとして、そのために劇中の登場人物の人生まで結論ありきにするな。