『ブルータルジャスティス』

原題『Dragged Across Concrete』はS・クレイグ・ザラー監督過去作の超インディー映画ぽさとは比べ物にならないくらい作りがメジャーだ。製作費もこれまでの2,3倍に増えている。画のルックもこれまでの自主映画に近いようなチープなデジタル撮影とはまるで違っている。製作費だけじゃなく上映時間も今まで以上に増した。その結果、自分には冗長に思えるところも増した。物語の型がB級ノワール(B級とかいう表現は嫌いだけどあえてこう書きます)なだけに、もっとテンポよく進んでくれよと思ってしまう。定型だからこそ、会話やキャラでオリジナリティを出そうとするのは志があるし、実際オリジナリティはそれなりにあるけど、ハリウッド映画らしい説明的なテンポや芝居を避けるがあまり、むしろ描きこみが過剰になって、全体的には逆に説明的になっていると感じた。特に終盤はもっと端折ってに終わらせた方が独自性も出るのではと思ってしまう。メルギブの家族に金塊が届けられたところまで見せてしまうのは、自分にはグッと来なかった。それはヌルく感じる。

銃撃戦はさすがに美意識や拘りを感じさせたけど、それをこれ見よがしに披露しているだけという感じもした。最後に生き残るから実質の主人公ということになるトリー・キトルズ演じるただのチンピラが、クライマックスであの恐ろしい強盗団から一発も食らわずに攻防できたのは説得力なく思えた。親友(マイケル·ジェイ·ホワイトだっ!)を助けるために、強盗団の乗るバンに向かって行きながら、弾丸を撃ち込んでバンのドアを閉めるショットはたしかにカッコいいけど、ただのチンピラにそこまでのスキルが発揮できる説得力はなく思える。それがザラー流の飛躍とは割り切れても自分にはあまり面白い飛躍には思えなかった。こういうのはシネフィルくさいアクションに思えて苦手だ。

それは黒沢清が描く銃撃戦にもよく思うことで、それまで銃を持ったことない、またはそこまで撃ちなれていない人(ただでさえ日本人だし)がひとたび銃を持つと冷静沈着に対象を撃ちぬいてしまえたりすることに「映画とはつまりこういうものである」と飛躍を作っているのは分かるけど、作品内で説得力をもたせてくれないと自分には冷める。つまりシネフィルアクションは拳銃の扱いが軽い。拳銃よりも作者の映画表現を上に置いている感じがして苦手。じゃあマイケル・マンくらいリアルにやればいいかというと、あれはあれで見せつけがましい!(とはいえシネフィルアクションよりは好きだけど)

銃撃戦に限らず、飛躍の違和感はザラー過去作にも沢山あった。しかし『トマホーク』は西部劇『デンジャラスプリズン』は極悪刑務所と、そもそもの舞台が日常から飛躍していたし、特にこの2作は後半に進むにつれビジュアルの異界性も増していくから、ビックリする飛躍が起きても「まあそういうことか」と納得する。対する本作は現代のアメリカを描いている。

物語的な飛躍としては、中盤のあわれな銀行員の女が殺されてしまう展開が一番のビックリだろう。これがあるから自分はこの映画が決定的に好きになれない。ただ単に彼女が無残に殺されたことよりも、それを唐突に放り込むことでなんとしても観客に遺恨を残してやりたいという狙いが透けて見えすぎるから好きになれない。これはミヒャエル・ハネケラース・フォン・トリアーが嬉々としてやりたがるような薄っぺらな悪意に近いと感じた。そういう薄っぺらな悪意が楽しい時もある(実際トリアーの映画は幼稚なものとして最近はそれなりに楽しく観れるようにはなった)けど、本作のそれはこの分かりきったB級ストーリーに挟み込むには明らかに長く時間をかけすぎているエピソードだ。似た展開としては、クライマックスで強盗団に脅され利用された人質の女がヴィンス・ボーンを殺しにかかり、メルギブに無残に射殺されるのも、薄っぺらな悪意だけどまだ攻防戦の一環として行われるから面白かったと思う。ただ、強盗団と人質の彼女が超揉めているらしいやり取りを刑事二人も聞いていて、そのあとに不自然に彼女が這ってこっちに向かってきたんだから、もっと警戒しろよとは思って若干乗れなくもある。

メル・ギブソンとヴィンス・ボーンのバディは魅力的だったと同時にもっと非道な汚職刑事であることを期待していた。しかも職務外ではそれぞれに妻と娘、恋人がいたりして割と普通の生活を送っている。そのツケがそれぞれの家族や恋人に回ってきていいのでは。関係ない銀行員の女二人を悪趣味に殺しておいて、主要人物の近親者がみな無事だったりするのは温くないか。しかし「それこそB級映画ぽいじゃないかー」と言われてしまえばそれまででゲス。

強盗団3人は素晴らしい。ただの強盗を本当に怖く描けるというのは、なかなかの手腕だと思う。文字通り他人を道具として扱えてしまう血の通ってないヤバさがこの3バカにはしっかりあった。ナチスの軍人役が異様に多いトーマス・クレッチマンがリーダーにキャスティングされていることを考えると、この冷淡さは本当に怖い。そんな強盗団を密室に閉じこめ、ガス責めして殺すというのは果たして狙ったものなのか。しかもそれをやるのが、ユダヤ人差別発言をしたかつての非人間メル・ギブソン…。丸いゴーグルに黒のマスクを着けて、全身黒くピッチリとした武装服を着た手下二人のビジュアルは『ヘルボーイ』に登場した人造人間のクロエネンを思い起こした。そういえばあいつもナチスだった...。

とはいえ、この映画はあんまり好きじゃないし、ザラーもちょっと過大評価され過ぎじゃないかとは思う。その思いを強くしたのは、ザラーが脚本を担当した『パペットマスター』リブートを観たからだ。これで彼への不信用をかなり大きくした。『パペットマスター』は本当にどうしようもなかった。監督がまたひどいんだろうから、どこまで脚本通りに作られたかは判断しかねるけど、とはいえ物語からザラーの要素がふんだんに感じ取れそこが際立っているから土台になる脚本が最もひどいことに変わりはない。そして、そのザラーらしい要素のすべてが概ね薄っぺらな悪意にしか基づいてなさすぎてひどい。結局「なんとしても観客の予想を裏切りたい/不快にさせたい」という天邪鬼精神でしか成立させてないから、観ていて本当にどうでもよくなるし、逆にすべてが予想通りだ。そのことすらも「まあ、そういうものとして楽しんでくれよ」と達観したスタンスをとっているように感じて不快だった。『パペットマスター』ファンはもっと怒るべきじゃ!それにザラーだからって理由で過大評価するには無理があるくらい『パペットマスター』はひどい!

ザラーの過大評価に限らず、作品の評価基準を「だって、この作り手がやっているんだから」的な態度を支柱にしすぎることには疑問をもつ。あなたは本当にこの作品自体が気に入っているのか?監督が別人だった、あるいは誰か知らずに観た状態でも、同じように評価できるか?と考えるときがよくある。たとえば「これ監督の名前がイーストウッドじゃなくて知らない誰かとかなら、世間の評価低いんじゃないの?」と思わず考えてしまうほど、最近のイーストウッドの映画は手抜き仕事に思えて、本当につまらない。イーストウッドも過大評価されてないか!?まあ、そういうことはよくあるし、自分だって好きな監督のこととなるとそういう評価の仕方をしてしまう。「いやあ流石ジェームズ・マンゴールドだ」なんていって『ウルヴァリンサムライ』も『ナイト&デイ』も持ち上げようとしてしまう。しかし、『アイデンティティー』はさすがにつまらないと思えるくらいの冷静さは持っているつもりだ。黒沢清なんてスピルバーグを持ち上げるがあまり『フック』まで大げさに評価してるじゃない!いや本人はいたって普通に評価してるのかもしれないけど。

要は妄信的なシネフィル姿勢はやめたいと自分個人は思っている。ていうことはもしかして自分もかつてはシネフィルだったのか。実際ある時期まではシネフィルイマジカには加入していた。