『ゴジラVSコング』
前作のラストで残り物みたいな見た目の格下怪獣たちがゴジラに頭を下げていた。だから今後のモンスターバースは怪獣軍団を従え、地球を支配するゴジラを中心に展開するんだろうと想像した。コングと戦うことになるのもそれが理由なんだろうと。しかし、その件は本作では生かされもせず、そもそも触れられもせず拍子抜けだった。
まあ、この幼稚なシリーズにМCUみたいな高度な連続性や盛り上がる展開を求めても仕方ない。それに大前提として怪獣映画に人間ドラマを求めることが無粋なのも理解している。だけど、このモンスターバースのドラマは薄っぺらなくせに不必要に深刻ぶって、それを鈍重に描くことが丁寧な演出だと勘違いしているようなテンポで進むからイライラくる。だから「怪獣映画の人間ドラマなんて所詮は添え物」として割り切ることができない。その点、昔の出来がいい東宝怪獣映画はドラマも添え物に相応しいテンポと演出で軽快に捌いていたから、こっちも心置きなく割り切れて観ることができたもんだったのう…。
ドラマで嫌いなのは、出てくるキャラのほとんどが「過去に大事なだれか(主に家族)を失っている」背景を持っていて、怪獣を追跡したり事態を解決しようとする動機や行動原理の全ては、それを乗り越えることが目的だからだ、としか考えていない。それで観客にも納得してもらおうとしている。
それに関連して、コングと交流できる少女ジアは…はっきり書くけど、マジでゴジラに食われてしまえと思った。もしくはコングが体勢を組み替えたときに、うっかり踏みつぶされてくれないか。こんな酷いことを考えずにいられなくなるのは、彼女の描き方が本当に陳腐でどーしようもないからだ。なのに不必要に時間をかけすぎなんだ。聾唖という設定も彼女の健気さ、無垢さみたいなものをお手軽に強調できて、観客の同情も誘えるだろうと侮っている感じがしてすごく嫌だ。コングとコミュニケートしたいなら前作に登場した怪獣にだけ聞こえる音波を発信するマシンの技術を使えばいいのでは。
アレクサンダー・スカルスガルドが演じる何かの学者ネイサンをスカウトしに行くシーンで強烈なデジャブを覚えた。「家族を失くしたトラウマを抱えて以来、孤立した生活をしているプロフェッショナル」に会いに行ってスカウトする展開がモンスターバースのゴジラシリーズ序盤すべてにある(トラウマはなかったけど『コングスカルアイランド』も序盤で主人公をスカウトしに行っていた)もうさすがに飽き飽きしているというか、プロデューサーと脚本家チームはさすがに工夫してくれないか。たぶんこのシリーズもこの前のスターウォーズシリーズと同じで、全体を見通すプランがないから同じようなことを繰り返しているんだろう。
肝心の怪獣描写は『キングオブモンスターズ』ほど、怪獣を壮大に崇めたい感のフェティッシュがしつこくなく、アメリカンプロレスのノリに近い分こっちの方が好み。モンスターバース恒例の気の利いた記録映像風オープニングクレジットから一気にテンションが変わって、メタリックで極太フォントのタイトルが大音量で出てきたところからして、本作のノリが象徴されていた。基本的に明るい場所とクリアな映像の中で怪獣バトルを描くから良かった。特に一番最初の海上バトルはすごく良い。ビジュアル的にも『ポセイドンアドベンチャー』のように、転覆した空母にコングが縛られていて海中で上下逆さまになっているところに、ゴジラが向かって行く画は新鮮だったし幻想的な感じもあった。その後、空母の上で満を持して相対してコングがゴジラを正面からぶん殴る画は予告編通りの盛り上がりしかなかったけど、怪獣プロレスとしては超ぶちアガる。これだけ人間ドラマに無粋な文句を書いておきながら、怪獣プロレス映画としては、そう、終始ぶちアガりまくってたことは正直に書いてきます。しかし足りない感じもある。怪獣プロレスをやるならもっとやってほしくもあった。
ゴジラの背びれを刃にした斧はきっとコングが自作するんだろうと予告編を観た後に想像していた。クライマックスの決戦前にコングがゴジラからもぎ取った背びれで斧を作る、ゴジラは海中でトレーニングをする準備シーンがカットバック、音楽がどんどん盛り上がり、コングがエンパイアステートビル(でもなんでもとにかく高層ビル)の頂上で完成した斧を掲げて「ウオオオオオオ」と咆哮(ここで雷が斧にバチンと当たればなお良い)はるか遠くのゴジラもそれに呼応して「ガオオオオオオオン」で、決戦に突入。そう、つまり『プレデター』っすけど、要はこの映画の怪獣プロレスは実は全然振り切れてない気もする。擬人化するならこれくらいやって唖然とするほどバカに振り切ってほしかった。しかし、そんなに振り切ったら振り切ったで「アホくさ」と思ってしまうかもしれない。
『コングスカルアイランド』からエスカレートする怪獣の擬人化はハッキリ嫌いだ。しかし考えてみると不思議なのは、昔の怪獣映画のひどい擬人化、たとえばゴジラがシェーをしたり鼻をこすったり吹き出しで喋ったり、ガメラが鉄棒をやったりしても、少なくとも自分には「よくわからない生き物がなんかよく分からないことをやっている」としか感じず、正直「擬人化」とすら思えなかった。たぶん、怪獣の表情や仕草に着ぐるみスーツで表現できる限界があったから、実は擬人化なんか出来てなかったんだと思う。ゴジラが人間たちにうなずいたりしても、画面上では首がぼわんとしてるだけに見えるから「いまのって、頷き…?」とよく分からない余地があった。その「よく分からない余地」というのは、本当の動物を見ているときの感覚に近いのかも。しかし、今のゴジラもコングも超リアルな質感のCGで表情も豊かに描かれ、感情もスムースに読み取れるから、見事に擬人化できている。たとえ人間の味方だったりしても、理解不能な生き物を見ている感じがしない。だから嫌いなんだ。しかし人間が中に入って演じる着ぐるみスーツだとリアルに見えなくて、CGだとリアルに見えてしまうのは倒錯しているような。決して、CGが悪くてアナログが良いとかいう結論ありきなつまらないことを考えたいわけではないっす。
ただし、人間描写ではモンスターバースで一番グッときたところがある。それはクライマックス前にネイサンが決死の行動に出る前にジアと交わす手話のやり取り。序盤ではジアがネイサンに「あなたは臆病ね」と手話で伝えると、ヒロインのアイリーンが「あなたは勇敢と言ってるわ」と訳して、アホな彼は喜んでしまうというユーモアが、ここでは変奏して使われる。コングが死にかけて悲しむジアを励ますためにネイサンは「きみは勇敢だ」と意味すると勘違いしたまま「きみは臆病だ」と手話で伝えてしまう。すると落ち込んでいたジアは笑って「あなたもね」と返し、お互いの信頼が固く芽生え、ネイサンはコングの蘇生に命をかけて挑んで行く。この二人、この状況だからこそ生まれる描写なうえに、押しつけがましい綺麗ごとには全く陥っていなくてグッと来た。これがあるからその後のコング復活、気の毒な見た目のメカゴジラ戦もそこそこ盛り上がる。こういうあたりは、露悪的な要素を多く含む80年代イズムに溢れたホラーコメディで名をあげたアダム・ウィンガード監督の手腕かもと思った。