『ブルータルジャスティス』

原題『Dragged Across Concrete』はS・クレイグ・ザラー監督過去作の超インディー映画ぽさとは比べ物にならないくらい作りがメジャーだ。製作費もこれまでの2,3倍に増えている。画のルックもこれまでの自主映画に近いようなチープなデジタル撮影とはまるで違っている。製作費だけじゃなく上映時間も今まで以上に増した。その結果、自分には冗長に思えるところも増した。物語の型がB級ノワール(B級とかいう表現は嫌いだけどあえてこう書きます)なだけに、もっとテンポよく進んでくれよと思ってしまう。定型だからこそ、会話やキャラでオリジナリティを出そうとするのは志があるし、実際オリジナリティはそれなりにあるけど、ハリウッド映画らしい説明的なテンポや芝居を避けるがあまり、むしろ描きこみが過剰になって、全体的には逆に説明的になっていると感じた。特に終盤はもっと端折ってに終わらせた方が独自性も出るのではと思ってしまう。メルギブの家族に金塊が届けられたところまで見せてしまうのは、自分にはグッと来なかった。それはヌルく感じる。

銃撃戦はさすがに美意識や拘りを感じさせたけど、それをこれ見よがしに披露しているだけという感じもした。最後に生き残るから実質の主人公ということになるトリー・キトルズ演じるただのチンピラが、クライマックスであの恐ろしい強盗団から一発も食らわずに攻防できたのは説得力なく思えた。親友(マイケル·ジェイ·ホワイトだっ!)を助けるために、強盗団の乗るバンに向かって行きながら、弾丸を撃ち込んでバンのドアを閉めるショットはたしかにカッコいいけど、ただのチンピラにそこまでのスキルが発揮できる説得力はなく思える。それがザラー流の飛躍とは割り切れても自分にはあまり面白い飛躍には思えなかった。こういうのはシネフィルくさいアクションに思えて苦手だ。

それは黒沢清が描く銃撃戦にもよく思うことで、それまで銃を持ったことない、またはそこまで撃ちなれていない人(ただでさえ日本人だし)がひとたび銃を持つと冷静沈着に対象を撃ちぬいてしまえたりすることに「映画とはつまりこういうものである」と飛躍を作っているのは分かるけど、作品内で説得力をもたせてくれないと自分には冷める。つまりシネフィルアクションは拳銃の扱いが軽い。拳銃よりも作者の映画表現を上に置いている感じがして苦手。じゃあマイケル・マンくらいリアルにやればいいかというと、あれはあれで見せつけがましい!(とはいえシネフィルアクションよりは好きだけど)

銃撃戦に限らず、飛躍の違和感はザラー過去作にも沢山あった。しかし『トマホーク』は西部劇『デンジャラスプリズン』は極悪刑務所と、そもそもの舞台が日常から飛躍していたし、特にこの2作は後半に進むにつれビジュアルの異界性も増していくから、ビックリする飛躍が起きても「まあそういうことか」と納得する。対する本作は現代のアメリカを描いている。

物語的な飛躍としては、中盤のあわれな銀行員の女が殺されてしまう展開が一番のビックリだろう。これがあるから自分はこの映画が決定的に好きになれない。ただ単に彼女が無残に殺されたことよりも、それを唐突に放り込むことでなんとしても観客に遺恨を残してやりたいという狙いが透けて見えすぎるから好きになれない。これはミヒャエル・ハネケラース・フォン・トリアーが嬉々としてやりたがるような薄っぺらな悪意に近いと感じた。そういう薄っぺらな悪意が楽しい時もある(実際トリアーの映画は幼稚なものとして最近はそれなりに楽しく観れるようにはなった)けど、本作のそれはこの分かりきったB級ストーリーに挟み込むには明らかに長く時間をかけすぎているエピソードだ。似た展開としては、クライマックスで強盗団に脅され利用された人質の女がヴィンス・ボーンを殺しにかかり、メルギブに無残に射殺されるのも、薄っぺらな悪意だけどまだ攻防戦の一環として行われるから面白かったと思う。ただ、強盗団と人質の彼女が超揉めているらしいやり取りを刑事二人も聞いていて、そのあとに不自然に彼女が這ってこっちに向かってきたんだから、もっと警戒しろよとは思って若干乗れなくもある。

メル・ギブソンとヴィンス・ボーンのバディは魅力的だったと同時にもっと非道な汚職刑事であることを期待していた。しかも職務外ではそれぞれに妻と娘、恋人がいたりして割と普通の生活を送っている。そのツケがそれぞれの家族や恋人に回ってきていいのでは。関係ない銀行員の女二人を悪趣味に殺しておいて、主要人物の近親者がみな無事だったりするのは温くないか。しかし「それこそB級映画ぽいじゃないかー」と言われてしまえばそれまででゲス。

強盗団3人は素晴らしい。ただの強盗を本当に怖く描けるというのは、なかなかの手腕だと思う。文字通り他人を道具として扱えてしまう血の通ってないヤバさがこの3バカにはしっかりあった。ナチスの軍人役が異様に多いトーマス・クレッチマンがリーダーにキャスティングされていることを考えると、この冷淡さは本当に怖い。そんな強盗団を密室に閉じこめ、ガス責めして殺すというのは果たして狙ったものなのか。しかもそれをやるのが、ユダヤ人差別発言をしたかつての非人間メル・ギブソン…。丸いゴーグルに黒のマスクを着けて、全身黒くピッチリとした武装服を着た手下二人のビジュアルは『ヘルボーイ』に登場した人造人間のクロエネンを思い起こした。そういえばあいつもナチスだった...。

とはいえ、この映画はあんまり好きじゃないし、ザラーもちょっと過大評価され過ぎじゃないかとは思う。その思いを強くしたのは、ザラーが脚本を担当した『パペットマスター』リブートを観たからだ。これで彼への不信用をかなり大きくした。『パペットマスター』は本当にどうしようもなかった。監督がまたひどいんだろうから、どこまで脚本通りに作られたかは判断しかねるけど、とはいえ物語からザラーの要素がふんだんに感じ取れそこが際立っているから土台になる脚本が最もひどいことに変わりはない。そして、そのザラーらしい要素のすべてが概ね薄っぺらな悪意にしか基づいてなさすぎてひどい。結局「なんとしても観客の予想を裏切りたい/不快にさせたい」という天邪鬼精神でしか成立させてないから、観ていて本当にどうでもよくなるし、逆にすべてが予想通りだ。そのことすらも「まあ、そういうものとして楽しんでくれよ」と達観したスタンスをとっているように感じて不快だった。『パペットマスター』ファンはもっと怒るべきじゃ!それにザラーだからって理由で過大評価するには無理があるくらい『パペットマスター』はひどい!

ザラーの過大評価に限らず、作品の評価基準を「だって、この作り手がやっているんだから」的な態度を支柱にしすぎることには疑問をもつ。あなたは本当にこの作品自体が気に入っているのか?監督が別人だった、あるいは誰か知らずに観た状態でも、同じように評価できるか?と考えるときがよくある。たとえば「これ監督の名前がイーストウッドじゃなくて知らない誰かとかなら、世間の評価低いんじゃないの?」と思わず考えてしまうほど、最近のイーストウッドの映画は手抜き仕事に思えて、本当につまらない。イーストウッドも過大評価されてないか!?まあ、そういうことはよくあるし、自分だって好きな監督のこととなるとそういう評価の仕方をしてしまう。「いやあ流石ジェームズ・マンゴールドだ」なんていって『ウルヴァリンサムライ』も『ナイト&デイ』も持ち上げようとしてしまう。しかし、『アイデンティティー』はさすがにつまらないと思えるくらいの冷静さは持っているつもりだ。黒沢清なんてスピルバーグを持ち上げるがあまり『フック』まで大げさに評価してるじゃない!いや本人はいたって普通に評価してるのかもしれないけど。

要は妄信的なシネフィル姿勢はやめたいと自分個人は思っている。ていうことはもしかして自分もかつてはシネフィルだったのか。実際ある時期まではシネフィルイマジカには加入していた。

ショッピングモールは期待を誘う

Netflixの作品ラインナップをあてもなく眺めていた時に、アントニオ・バンデラス主演の『セキュリティ』という作品が目についた。あらすじを読むと「元海軍の男が、ショッピングモールの夜間警備員として働くことに。武装した男たちに狙われる少女が逃げ込んだ時、警備員は深夜のモールで戦うために立ち上がる!」面白そうだと思った。特に「元海軍の男が、ショッピングモールの夜間警備員として働く」というこの部分には、いやが応にも反応せざるを得ない。

ショッピングモールはワクワクさせる場所だ。色々なものが売っているからワクワクする。近年のショッピングモール代表作と言えばなんだろう。『エージェント・ウルトラ』のクライマックスはホームセンターを舞台にそこにある様々な生活用品を使って武装集団と戦っていた。実際あの作品で一番面白かったのはそこだった記憶がある。

で、『セキュリティ』は多分『イコライザー』風に『ダイハード』をやったら面白いんじゃないかという発想で作られた映画だと思う。うまく行けば絶対に面白くなるに決まっている。

しかし、結論は面白くなかった。

(2018年の4月、ここで止まる)

 

溜め込んだ映画感想メモ軍団の最下層、つまり最も古いやつがこれ。3年前になるとは恐ろしい。「結論は面白くなかった」という以上に書くことがなかったんだろう。『セキュリティ』という映画に関してはもう覚えてない。敵のテロリストのボスがベン·キングズレーで「よくやるよ」と思った記憶は少しある。

とはいえ、この文章のメインは『セキュリティ』ではなくタイトルから分かるようにショッピングモール映画についてだったんだろう。いまの自分にはショッピングモール映画について書くモチベーションはそこまでないがやるだけやるぞ。

ショッピングモール映画の最高峰は『ゾンビ』なのか?あの映画にはショッピングモールの全てが描かれていたのかもしれない。なんてたってモールで生活をするわけだ。ああいう場所で生活をしている描写は観ているだけで楽しい。そういえばモールじゃないけど、空港で生活をする『ターミナル』は、舞台の空港がほとんどモールみたいだったから生活の描写は楽しかった。あとモールが舞台の映画ではずばり『モールコップ』があった。これも『ダイハード』要素が強いアクションコメディだけど、すごくつまらなかった記憶が。というか自分はアダム・サンドラーが本当に嫌いだから、彼のチームのケヴィン・ジェームズも嫌いだ。ほかにモールでアクションしていたのは、チャック・ノリスの『地獄のコマンド』中盤か。車でモールの中を暴走していた。同じことを『ブルースブラザーズ』もギャグとしてやっていたけど、『地獄のコマンド』はヒーローの活躍としてやっているから怖い。ていうか『地獄のコマンド』は観ているとあらゆる感覚が麻痺していく映画だ。ヤバイ薬みたいな映画かもしれない。その感覚が麻痺していく感じは主に80年代のアクション映画に特有のもので、そのことを自分は「アクションインフェルノ」と呼んでいる。スタローンの映画では『デッドフォール』(原題『Cash&Tango』)と『ランボー3』が、シュワルツェネッガーでは『コマンドー』がキマッテいる。

そう、『コマンドー』はモールで大アクションしていた。『ポリスアカデミー』みたいな大量の警備員たちをウワー!とはじけ飛ばすところは本当に最高だ。ポリスといえば『ポリスストーリー』もクライマックスにすごいモールアクションがある。しかも舞台になるモールはアメリカ的なバカでかいものではなく、日本の地方都市に今でもぽつんとあるような狭く閉鎖的なタイプの、限りなくデパートに近いリアルな場所で展開されるから、ジャッキーがぼろぼろになっていくのもハードで怖い。こう書いちゃ悪いけど安っぽいモールやデパートには特有の息苦しさがあって、少し犯罪の気配を感じる。犯罪映画でモールを使っていたのは『ジャッキーブラウン』。しかもモールの中で最も犯罪のにおいがするエリア、ファーストフード店に囲まれたフードコート(かなりヤバイ場所だ)で現金の受け渡しをやっていた。タランティーノはいいセンスしてる。しかもそこの駐車場ではデ・ニーロがブリジット・フォンダを殺していた。最悪だ。

犯罪では『ペントハウス』でもモールがいい使われ方をする。ベン・スティラー率いる犯罪の素人軍団が犯罪修行のためプロ泥棒のエディ・マーフィにモール内のフードコートに呼び出されると「このモール内から高価なものを一人ひとつずつ万引きしてこい。絶対に金は使うな。財布はここに置いていけ」と指令を出される。なんとか万引きをしてみんながエディ・マーフィのもとに戻ると「ひとつ忠告だ。絶対に泥棒に財布を預けるな」と言われて、素人軍団の財布から金がまるっととられているシーンが最高だった。『万引き家族』でもこういうのが観たかった。日本映画では松竹映画『白昼堂々』が万引き映画の傑作。実話をもとにデパート内の集団万引きを描いていた。あれの渥美清は良かったなあ…。

「shopping mall movie」と検索したら、『キルボット』というモールの中に配備されたセキュリティロボットが人を殺していく映画の原題が『Chopping Mall』であることが分かった。これを知ったことで、人生になにか影響をおよぼすのか。飛行機に乗っていて「緊急事態です、どなたか『キルボット』の原題が分かる方いませんか?」と乗務員が乗客に助けを求める。そんな『フライング·ハイ』すらやらなそうなことが起きたら「(挙手して)はいはい!私わかります原題は『Chopping Mall』でゲス」とは言わないと思う。

もうひとつ調べてみて分かったことは、ショッピングモールは特にティーンコメディ映画の中で印象的に登場することが多い。『ミーンガールズ』や『スーパーバッド』など。つまり極めて日常的な場所ということだ。その点、日常からかけ離れたキャラクターが主役の映画たとえば『007』シリーズのジェームズ・ボンドは、ミッションでない限りまずモールに行かないだろう。いや、最近のボンドは普通の人間ぽくなっているからモールに行く日もそう遠くないのか。敵のボスにボンドが接近するときは優雅なスポーツなどを一緒にやるところを、モール散策にしたらどうだろう。敵のボスはどういうわけかモールに入り浸っていて(世界征服のために倹約している)身分を隠したボンドも一緒にモールで遊ばなければいけなくなる。そして、最も恐ろしいことに一緒に激安紳士服売り場でスーツを仕立ててもらわざるを得なくなることに。ボンドにとっては拷問だろう。だが、超嫌そうなボンドに反して、いざ仕立ててみると仕立てた店員の目が「ワーオ」とびっくり見開くほどびしっとキマってしまう。しかし、そんな安いスーツがびしっと決まることを敵のボスが怪しんだことでボンドは窮地に…。ガイ・ハミルトンならそれくらい平気でやってのけただろうか。おしまい!

『ミスターノーバディ』鬱屈を爆発させるに相応しいボブ・オデンカーク

といっても西部劇のほうではない。原題は『No Boddy』でそのシンプルさがいいから「ミスター」は不要だ(しかも正しい表記はMrなんだけど、そう書くとなんだかマジシャンみたいでよりダサいから自分は『ミスターノーバディ』とする)し、日本版のポスターはただカッコつけすぎで、この映画本来の魅力を削いだものになっていると思う。しかしキャッチコピーをネオンピンク色で書いた映画ポスターのはしりは一体なにか。ネオンピンクコピーを使えば"この映画はヤバいですぜ"というアピールになると思ってるんだろうけど、これがポスターに書いてある時点で下品に思えて、自分はその映画を観たくなくなる。

 

ボブ·オデンカークが『ジョンウィック』の流れを汲むリアルファイトアクション映画の主演をやっている時点で感慨深いし本当に嬉しい。とにかく主人公のハッチが最初のバス格闘をするまでが大好きだ。序盤で彼の日常生活が毎日毎日同じことの繰り返しになってしまっていることを、本当に短いカットで細かく積み重ねた超編集(『ショーン・オブ・ザ・デッド』以降、定番になったこの手の日常生活モンタージュギャグのなかでも群を抜いたスピーディさ)で描いていくのが怒涛のつかみで悪くなかったけど、その日常生活のなかでランニングと懸垂だけは懸命にやっている(しかも仕事で成功していると思われる妻ベッカの写真広告が大きく掲げられたバス停で、その写真と対峙しながら)のでもうグッと来ていた。そしていろいろ鬱憤たまった挙句、バスの中で若い女に絡む酔っ払い軍団(こいつらの登場の勢いが最高だ)に満を持して主人公が怒りを爆発させるが、そこから繰り広げられるのは、ハリウッド映画らしい流麗さとは程遠いアクション、というより韓国映画などで描かれたタイプの暴力喧嘩(実際、作り手は『オールドボーイ』の格闘シーンからの影響を公言してる)。痛みで主人公の表情がめちゃくちゃ歪み歯を食いしばって血を流し、それでもグダグダに戦う姿には不覚にも涙が溢れた。ここには音楽も「でゅーん」というような今どき音響効果音も流れないことで、実際の現実生活で起きてしまったマジ喧嘩を目撃しちゃったような感じを増強させていて、演出もとても的確だ。掴みになるアクションシーンで泣いたのはたぶん初めて。完全に「がんばれ!がんばれ!!」という感じで観ていた。その後、主人公が窓から放り出されるも再び戻ってきて、今度はかつてのスキルを取り戻してベルトを武器にタクティカルな格闘に切り替え、ようやく敵をノックアウトさせられるという二段階になっているのも、何気にリアリティを感じさせてよかった。

ここまでがよかっただけに、そこからが…。脚本とプロデューサーが『ジョンウィック』チームなだけに、物語は本当にスカスカでしょうもない。自分は『ジョンウィック』シリーズが好きじゃないから、そこは甘く流せない。特にバス格闘以降が、いくらなんでも『ジョンウィック』すぎるだろう。敵の設定も含めパロディをやりたいのかというレベルだった。前半で描かれた息子との不和(序盤の強盗が襲ってくる展開で「お、ここで主人公が覚醒ですな」と思いきや息子が絞め技で強盗に対処したことで主人公が躊躇してしまうのが良かっただけに!)や、その強盗のもとに復讐に行ったら、正体は病気の赤ん坊を育てる貧困夫婦であったことを知ってしまう展開も、あるいはゴミ出しに毎回間に合わないというコミカルな生活描写も、主人公が覚醒した後にはまるで発展せず生かされない。ただ、敵と暴力のキャッチボールをしているだけでドラマがない。

特に強盗貧困夫婦の件をそのあと生かせば、主人公が殺人者に戻る代わりに正義の執行者になるのだというドラマが描けておいしかったのにと思う。作り手たちはそういう期待を主人公にして無かったのか?じゃあ病気の赤ん坊なんてなぜ出したんだ!まあ少なくともこの作り手たちが正義にこだわっているようには全く見えない。バスのシーンだって感動したけど、主人公が表面的には若い女を救うために暴力を利他的に使ったようでいて、本質的にはストレス発散のための利己的暴力でしかないから、実は「ざまあみやがれ!」と立ち上がりたくなるようなカタルシスには到達してない(ここのシチュエーションが『狼よさらば』ぽかっただけに、暴力と正義のせめぎあいが全く無いのはひっかかる)べつにそれならそれでいいんだけど、かと思えば主人公がクライマックス前に電話で家族に別れを伝える展開で「偽りの人生を送らせてくれてありがとう」というグッとくるセリフを言ったりするから、「ああ、殺人者に戻る代わりに家族と普通の人生を捨てるってドラマなのか…」となんだしっかりしているじゃんと思わせたら、ラストでは何事もなく家族元通りかよ!とずっこけることになるし中途半端ではある。そこら辺、実はこの映画も影響下にあるはずでクライマックスのシチュエーションが似てる『イコライザー』シリーズが、徹底した正義の追求ぶりでドラマを作っていたのとは訳がちがった。これは脚本が明らかに上手くない。そういう「やりっぱなし」感は『ジョンウィック』シリーズにも毎回感じることだから、この脚本家デレク・コルスタットはちょっと適当で信用ならない。

それに関連する明確な欠点は妻ベッカの描き方だろう。夫婦仲がうまくいってなくセックスレスになってる描写などがあるのに、主人公の覚醒以降はただ彼の言うことに従って子供を安全な場所に隔離させる役目を負わされるだけの人になってしまうことに全く説得力を感じなかった(一応、ベッドを隔てていた仕切りを取るとか、主人公の見ていないところでやっていたけどそれだけでは足りない)べつにサポートに徹する妻という人物設定は、男観客をメインにしたアクション映画特有の都合のよさということで割り切ってもいいんだけど、その手の映画として割り切るには、あまりにもボブ・オデンカークが男尊女卑感を感じさせない謙虚さと、真に迫る中年の悲哀を芝居で感じさせて超説得力あっただけに、対する妻のキャラクターにちゃんと釣り合いがとれてないのはすごく残念に感じる。

しかしそういう欠点はあれど全く嫌いにはなれないのは、とにかく主演のボブ·オデンカークと監督のイリヤ·ナイシュラーが素晴らしい仕事をしているからだ。ナイシュラーは映画監督になる前からロックバンドをやっているミュージシャンなだけあってか、今回も音楽や、あととくにブラックユーモアの時に光るギャグセンスが超いいと思う(酔っ払い軍団の不気味な陽気さや、敵のボスがカラオケが好きでお茶目な一面を見せたりするのはナイシュラーの演出でこそ魅力的になっているのだと思う)アクションのセンスももちろんだけど、そういったすべてが『ジョンウィック』的な浮ついたチャラいセンスではなく、もっと人間の生々しさや卑近なコミカルさを増強させる感じで自分は好きだ(同じくヨーロッパ生まれ監督のポール・ヴァーホーベンを少し思い出す)そして前作の『ハードコア』と本作は共通して「鬱屈をためこんだ人間の爆発」を描いているが、その爆発ぶりがスーパー過剰なところがナイシュラーにとって特別なモチーフなんじゃないかと想像する。そして、その部分に対する眼差しは間違いなく誠実な監督なんだと思った。だから自分はバス格闘までは面白くて感動すらしたのかも。ちなみに自分は『ハードコア』もすごく好きでアクション以上に、クライマックス前に主人公がずっと妻だと思っていたヒロインに、実は利用されていただけでしかも憎き悪役とくっついていて、おまけに自分自身も大量生産の使い捨てロボットだったことを知った直後に、はじめて主人公の顔が鏡越しに見える(POV映像だからそれまではどんな見た目のやつかわからなかった)その顔の気の毒なほどの普通さに「がんばれ!」となって感動した。

画のルックもクールで品のある画作りだけど、同時に現実離れしたマンガっぽさも感じさせる独特さでよかった。調べてみると『ヘレディタリー』『ミッドサマー』で難易度の高そうな仕事をしていたパヴェル·ポゴジェウスキだと分かって少し納得。

あとはそう、老人ホームでいつも西部劇しか観ていないクリストファー・ロイド。なにが良かったって、襲撃してきた敵を迎え撃った際に銃声を聞いて駆け付けた職員がドアを開けると、大音量で西部劇を観ていただけじゃというふりをすることで、殺しを見事に偽装工作するところ(職員と受け答えなしながら見えないように襲撃者の首を絞めているのが魅力的)この伏線の使い方は熱いし何気にフィクションが現実にも役に立つ系シーンとして際立っていたのでは(まあ『ホームアローン』二部作が同じようなことはやっていたが、こちらとは真剣さが違う)。ということは、この爺は普段からこうやって人を殺しているのか?とも思わせて少しゾッとした。

で、これが出来たなら、鬱屈をためこんだ中年女のアクション映画も是非作ってほしい。たとえばマーゴ・マーチンデイルで。

これからはブログをもっと書いていこう

という気になったのは、ひとつにまず最近パソコンを手に入れたから。三年ほどまえにそれまで使っていたパソコンは売ってしまい、それ以降はスマートフォンで書いていたがまったくもって向いていない。小さい画面の小さいキーボードで書くのはすごく疲れるからどんどん書くことが億劫になり、ブログもほぼ放置になっていた。しかしそれでも一日に二、三人は見に来ていたし、二週間に一回くらい二十人ほど見に来るときがあって謎だけどありがたく感じていた。まさか毎日見に来ている二、三人が合わせて二十回見に来ていただけなのか。それともその二、三人というのも実はたった一人が毎日三回見に来ているだけなのか。あらゆる可能性を考えたほうがいい。けど自分がテンパっていたときなどにそういう人たちの存在が大きかったことは間違いない。ありがとうございました。

そしてもう一つには、さすがに今の世の中に堪忍袋の緒が切れそうだということがある。だが本当に堪忍袋の緒が切れると一体どうなるのか。殺人やテロの一部はそうして起こるのか。少なくとも今の自分には「堪忍袋の緒が切れそうだ」と表明する術しかない。しかし嫌な人間と嫌な出来事が多すぎだ。こっちがいつまでも黙っていると思ったら大間違いだぞと言ってやるし、その気持ちはしっかり表明したほうがいいと思っている。

ただしだからといって、政治や世の中のことを直接書くつもりはない。まずこれから書くのは途中まで書いて面倒くさくなったからやめて、ひたすらたまり続けてしまった映画の感想軍団たち。イメージとしては、しまい込みすぎて発酵しまくって開けるのが怖くなっている脅威。ただしそれは間違いで、発酵ではなくただ腐っていただけかも。週に一回のペースであげていくかもしれないし、そうはならないかもしれない。まったくの未定だ。

しかしこのブログでもなにか世の中の役に立つことが出来るんじゃないかという可能性を考えてしまう。一体なんの役に立つのかはまったくわからない。少なくとも「このブログでも世の中の役に立つことが出来るんじゃないか」と表明する術しか持っていないのだが…。困ったことがあったり、しんどくなっているときにこのブログの文章で誰かを助けることはできるか。それも読んだことでお金が発生したり、今日食べるものが現れたり、住む家がない人に寝床を提供できるといったレベルのことだ。そんなブログは存在しないだろう。存在しないなら私が作ってみせよう。とはさすがに表明できない。

今日から自分なりの社会貢献ブログとしてやってみます。私は超真剣だ。

『ミッチェル家とマシンの反乱』すべてが結論ありきの薄っぺらさ

自分が今まで観てきたあらゆるものの中でもオールタイムベストのひとつ『グラビティフォールズ』の演出、脚本チームにいたマイク·リアンダとジェフ·ロウの長編初監督作品だから期待していた。ビジュアルやルックは『スパイダーバース』に続き、他のCGアニメでは見たことない質感のものになっていて、それだけでも見る価値はあった。しかし物語はつまらなく、劇中の家族観も非常に不快なものだった。

まず敵のロボットとそれを操るsiriみたいなAIの描写や設定が本当にいい加減だ。ロボ反乱のきっかけは、AIのPAL(声はオリヴィア・コールマン)がスマートフォン内臓の人型ロボットにとって代わられ、ロボのプレゼン中にCEОから地面にポイ捨てされたことの逆恨みによるものだ。それが世界規模のロボットアポカリプスにまで発展してしまうというのはいい意味でくだらなくて嫌いじゃない。しかし、ポイ捨てされる場面で地面に捨てられたPALが悲しんでいるのをわざわざアップにして映してしまうのが、後の展開を考えると不要だ。ここの悲しんでる表情で観客には反乱のきっかけが分かってしまう。なのに、そのあと実際に反乱が始まると劇中の誰もPALが首謀者であることに気づかない。じゃあ、PALのリアクションを描いてみせたのはあくまでもミスリードであって、首謀者はちがうやつということなのかと思っていると、CEОが首謀者のもとに連行されるシーンで椅子がくるっと振り返り「黒幕は…こいつでした!」的なクリシェを使って種明かしのようにPALが登場する。この展開の流れだと「だからPALが首謀者なのはさっきの悲しんでるアップで分かってたよ!」となるだけだ。観客がすでに分かっていることをあえてくどく強調するギャグのつもりなのか、単に作劇がすっとこどっこいなのかが分かりにくく本当にボケっとしていた。この流れを効果的にやりたいなら、反乱の直前にPALのリアクションを入れてはダメだろう。ポイ捨てされたPALの表情のアップはCEОに反乱の理由を説明するときに、フラッシュバックでも用いて描けばいい。そうして時間差を設けることで、さっきのプレゼン時にPALはひとり傷ついていたというのが遡って分かり、CEОのプレゼン時の言動も翻ってすごく無神経に思えて、PALの言い分にもいまよりずっと説得力が増すと私は考えますがどうでしょうか。

しかしよく考えてみると、ポイ捨てがきっかけなら反乱には計画性がなかったはずなのに、なぜ会社の地下から宙に浮かぶ超巨大基地が現れたり、凶暴な見た目のバトルドロイド的なやつがいるのか。数時間であれだけのものをPALが瞬時に設計し作ったってこと?それ以外にも『Mrインクレディブル』の悪役が武器にしていたのとよく似ている、物体を固めて移動させる光線も、そもそも家庭用ロボットにつけるのは危険すぎるだろうとか、だいたい同じ企業のものなんだから、PALはデフォルトでロボットにもインストールされてもよくて、べつに不要にはならないんじゃないの?とかも考えられて、かなり雑だ。

ロボ絡みでいえば、この映画の致命的な弱点は政府も軍隊も警察も一切出てこないことで、そういった「まともな存在」がまともなやり方でロボに対処して失敗するプロセスがあってこそ、一家の型破りな変人ぶりとやらがロボを倒していけるところに痛快さが生まれ、その変人ぶりとやらにも説得力が生まれるはずなんだけど、一家以外の存在がロボと戦う描写がないことで戦いのカタルシスに欠けている(いちおう、最初のコンビニでのロボ戦では一家以外が続々ロボに捕らえられる描写をやっていたけど)だから、ロボ軍団の弱点になるのが実はケイティが作った自主映画のアホ犬の映像だとしても、彼女の個人的な願望が成就した溜飲下げになるだけで、ロボを倒す手段としてそれがどれほどスゴいことなのか分からないから盛り上がらない(それにこのネタ自体が『マーズアタック』もとい昭和ゴジラ映画のX星人の倒し方以来さんざん繰り返されてるやつで新鮮味にも欠ける)それにあの犬は豚にも食パンにも間違えようがないと思う。

こういった雑さもたとえばロボ反乱を世界中で展開する大規模なものにせず、クローズドにすればある程度は気にならなかったと思う。本作が参考にしていると思われる『くもりときどきミートボール』や『シンプソンズ』劇場版(と『グラビティフォールズ』も)はカタストロフが起きる場所を限定して、余計な説明や矛盾が生まれないようにしていた。

そもそも敵がロボである必然性も実は特に感じない。せいぜい主人公一家の父と娘のテックvsアナログのぶつかり合いを重ねたかった程度だろうけど、ロボの描写は適当だし父と娘のドラマは後述するように恐ろしく薄っぺらいから、ロボじゃなくて宇宙人でも魔鬼のような軍勢でも同じ話が成立するんじゃないか。

といった、いわゆる「突っ込みどころ」ってやつをこのアホっぽいスラップスティックギャグ満載のCGアニメにどうして求めてしまうかといえば、劇中で描かれる世界観というのが少なくともロボ反乱が起きるまでは、今現在の現実とほぼ地続きのものだからだ。本作の企画としての立脚点も、その日常生活がある日突然、非日常的な異常事態に一変することの面白さを狙っている以上、作り手自らが要請したリアリティにきちんと応えていないのは説明不足、考え詰め不足に他ならない。中盤の巨大ファービーが出てきて光線を吐き出したりするのも、ただの出落ち的なオモシロをやりたいがために、リアリティバランスをぶれさせる悪い飛躍にしかなってない。そもそも元からしてファニーな見た目のやつを巨大にして出してくるセンスが、インターネットウケを狙っただけの安易さに感じてしらけた。

ただ、この作り手たちが一番描きたかったのはAIとロボの反乱、そこから発生する世界征服のプロセスではなくミッチェル家の物語だから、ロボはその障壁として割りきって観たとしても、肝心の家族のドラマが薄っぺらい。

そもそも、大冒険のきっかけになるドライブ旅が始まるところからして、私は文字通り乗れなかった。娘ケイティは家に居場所がない(と感じている)からこそ、映画作りを本格的に学べて、仲間もたくさん作れる大学に希望を抱いている。だから1日でも早く実家を出たくて、飛行機で大学までさっさと行って、到着後の友達との予定まで立てていたわけだ。にも関わらず父親はケイティの飛行機のチケットを本人の了承を得ず勝手にキャンセルして、家族総出で車で送り届けることを本人の了承を得ず当日になって勝手に決める。娘の気持ちを一切無視したこの強制行為に、ケイティは当然断固拒否するかと思いきや、嫌がるというよりは困惑ぽい素振りの弱いリアクションで車に乗り込んでしまう。なぜ?飛行機のチケットをキャンセルされたから乗り込まざるを得ないにせよ、ただでさえ父親とは前日に大喧嘩をして(大事な大事な映画作りの生命線になるパソコンまで壊されかける)、いまだ和解(というか親父が謝ればすむことだ)もすんでいない状況なのだから、ケイティは命がけで怒ったほうがいいし、それに絶対に車に乗っちゃダメだ。極めつけは、それまでは一応父親よりは理解があるかと思えた母親の「パパなりに考えたのよ。あなたも歩み寄って。命令よ」というセリフで本当に心底ひどい一家と思った。変人一家じゃなくて悪人一家だ。で、この両親(特に父親)は最後までケイティに詫びることはなく、車で送り届けることを勝手に決めた件も「コミュニケーション下手な父親の不器用な愛情表現」として作り手は良しとしているみたいだ。そりゃケイティは一刻もはやく家が出たいに決まってるぜ。しかし、母親のセリフでケイティは気を取り直すと、ミッチェル家のカメラを回しだし半分自主映画ぽいホームビデオを無邪気に撮りだす始末。しかも父親にもカメラをばんばん向けて、軽く演出をしたりする(実は撮影したものをおそろしく悪意に満ちた作品にまとめるのかと思った)まあ、本人が楽しんでるならいいか…ってならないよ!ケイティがカメラを家族に向けるのに全く納得できないため、このホームビデオが父親の知られざる一面を記録した映像に上書きしてしまっていたことを知る後半の展開で「感動的な」伏線として機能することはなかったし、だいたいこのホームビデオ映像が自分には不快の極みだった。そもそもケイティが上書きをしてしまっていたというのも、映像オタクはそういうのきちんと事前にチェックしないかなとも思うが、まあ作り手の安易さだからおいとく。過去の映像が始まると母親が撮影してるカメラが幼いケイティーのアップからパンして、自分が森の中に建てた念願のマイホームを生まれたばかりの娘のために売却して最後の見納めをしている父親の背中を映すが、その構図といいタイミングといい、これはどこのピクサーアニメーターが作ったビデオだ。どっからどうみても「親の苦労を子供に見せつける」ビデオにしか見えず大変しらける。だいたい子供のために親が自分のしたいことを諦めること自体はべつによくあることとして、その苦労を分からせることで子供に罪悪感を与えて反省させようとする神経は画期的に図々しく気持ち悪い。ここで「あ、この作り手たちは実は父親目線なんだ」と、それまでのケイティに対する無神経さが一気に府に落ちた。

ちなみに上書きしてしまったホームビデオというのが、キャラクターに重要な変化をもたらす展開で素晴らしかったのは、さっきも例に出した『シンプソンズ』の映画版だ。これでは主人公のホーマーが舞台になる町スプリングフィールドに滅亡の危機を招いてしまうが、しかしホーマーは画期的に利己主義なけだものなため一切責任を取ろうとせず、町の住人たちを見捨てて家族を巻き込んだ危険な逃避行をしてしまう。そんなけだものの妻マージは業を煮やしてテレビから流れてくるものにしか向き合わないホーマーへ、ビデオメッセージの形で別れを告げる。しかもそのメッセージは、ホーマーへの怒りでスプリングフィールドの住民たちがシンプソン邸に火をつけ町を逃げ出さなければならなくなったときに、燃え盛る家からマージが命がけで取りに戻った大切な結婚ビデオで、そこに上書きしたものだ。上書きでマージの覚悟を表現するだけでも上手いのに、上書きという性質をいかしてこちらの虚を突く映画的な瞬間が待っている。それを家族に捨てられてたった一人で見ているホーマーの人間臭いとしか言いようがないリアクションが徐々に変化していく様子も含め、台詞も演出も完璧なシーンだ。

しかも、劇場版はクライマックスでバートとホーマーの破綻した親子関係が修復される展開がまた素晴らしい。ホーマーの父親失格人間失格な非常識さでしかなし得ない方法でバートの信頼を獲得するのがまさにシンプソン一家であり、結論ありきで作ったのとは真逆の素晴らしい感動があった。なにより大事なことは、ここでのホーマーは彼なりにバートに精一杯寄り添った結果が倫理的には間違っていたということだからだ。『ミッチェル家の~』の娘に寄り添ったとは到底思えない父親の発する上辺だけの愛情とは、誠実さの格が根本的にちがう。まあ『シンプソンズ』と本作を比較するのはさすがにフェアではないかもしれないけど。

「最終的には親子関係が修復されてほしい。それもケイティが父親に感謝することで」と作り手が結論ありきで描いているから、家族のドラマに説得力がないし、まあ説得する気もないみたいだ。それもすべて「家族は素晴らしいものだ」という一般的な綺麗事を全く疑っていないで物語を考えているのだろう。ラスト、無事大学に送り届けケイティと家族がお別れをするシーンで、父親の「本当の仲間が待ってるぞ」というセリフにケイティが「家族が本当の仲間だよ」と返す饒舌なのに薄っぺらいセリフのやり取りに作り手の姿勢がよくあらわている。

本作を構成する要素の「娘を送り届ける旅」も「すれちがう父娘関係」も「娘は映画作りが好き」も「父親は重度のデジタル嫌い」もぜんぶ結論ありきだから、脚本上いずれ消化することが決まっているタスクという感じにしか思えない。そういうのを観ると自分は「人間の言動をタスクみたいに考えてるんですね」とかなり冷める。登場人物が送った人生の大事な出来事や思い入れのあるアイテムというものをすべて伏線にして、いずれ回収するなにかとしか考えていないようなやり方は物語に対して失礼だと思います。

序盤の喧嘩後にケイティと父親が別々の場所から相手に対して「どうして変わっちゃったんだろう…」と同じセリフを言うシーンもキモくて、両者同じことを言うことで「とはいえ親子」ということしか示せてなく、喧嘩後のすれ違いというものは表現できてない。本当にすれちがっているのなら一方が「どうして変わっちゃったんだろう」と言うのに対してもう一方は「どうして変わってくれないんだ」と言うとか、それくらいの齟齬も描く気ないのか。

ケイティは自分が作った自主映画がクライマックスでロボを倒す武器にもなるわ、牢屋に入れられたCEОも元気づけるわ、親父も感動するわで、全てを一直線になんの変化もなく自分の望みどおりにするだけ。で、この映画自体もケイティが作ったのかもよと匂わせるような、インターネットミーム的映像表現も、すべてその時々のケイティの感情をそのまま説明してるだけに過ぎないから説明過多になっているだけで、自分にはつまらなかった。しかもクライマックスでPALをコップの水に入れて壊すときに、苦しむPALの表情に猿が変な叫びかたをする映像を面白おかしく持ってくるのも、いくらオープニングで父親に使っていた伏線(て言わないとおもうけど)だとしても、はしゃいでるだけで下品に思えた。そういったことは感動とかではなく、お手軽な溜飲下げに近い。

父親にとってもケイティは自分の苦労をわかってくれて、自主映画で自分に対する愛情も表明してくれて、最後には思い出の歌も一緒に歌ってくれてと、お互いがそれぞれ望んでいたことを完璧な形で成就させる。というより自分が変化するのではなく、相手が変化することを待っているような傲慢さも感じる。そうこの映画が描くドラマの帰着はすべて「相手が自分の思い通りになった」というだけだ。ケイティと父親と比較すると描き込みが足りないからすごく存在感の薄い母親と弟の軽いサブプロットレベルのドラマも結局、母親は憧れていた完璧家族から最終的には認められる(そもそも、あのいかにもな上辺だけ完璧家族を、本当に完璧家族としてしか描かないのも薄っぺらい)弟は自分と同じく恐竜好きの女の子と仲良くなれると、父娘同様こっちも自分の願望をなんの変化もないまま一方的に成就させるだけ。ここに自分が感動できるものは一切ない。せめて、自分が望んでいたことが成就するのと引き換えに、別の大事ななにかを失ってほしい。それでこそ物語じゃないか?少なくともこの作り手たちは『グラビティフォールズ』でそれを徹底して描いていたじゃないか。あの作品では最終話にいたるまで、すべてのエピソードで主人公が何かを得ればべつの何かを失う。そうして「人生は思いどおりに行かないのだ」ということを、主人公のディッパーとメイベルは手に入れているのだ。そしてその二人の子供の姿から、ままならない人生を送る大人のキャラクターたち(特に二人のオッサン)はもう一度人生をやり直せることを学ぶ…。って『グラビティフォールズ』のことはいつか必ず書くぞ!

で、極めつけはエンドクレジット。監督マイク·リアンダ本人の幼少時撮影した家族写真を出してきて、ミッチェル家の写真とご丁寧に重ねて矢印で「Real MitchellFamily」と出す。自分の人生をはじめから全肯定することありきで映画を作る姿勢、しかもその自意識を最後に観客にまで共有させてくる神経に寒気が…まあそれはいいとして、そのために劇中の登場人物の人生まで結論ありきにするな。

『マンダロリアン』

久しぶりに面白いスターウォーズが観れて幸せでごんした。シーズン1の感想。

 

チャプター1

超西部劇。マンドーが薄汚れたストームトルーパーたちとメキシカンスタンドオフかますところで痺れた。銃を撃ちまくるIGがめちゃカッコいい。物語的に最もグッときたのは、マンドーがブラーグを手なずけられず諦めかけたところで、じじいアグノーツから「お前はマンダロリアンだろう!(You're a mandalorian !)」(ニック·ノルティの声で)と言われて再挑戦するところ。ここで音楽が高まっていきマンドーがアグノーツを手なずけら乗ることに成功した次のカットでは、二人がアグノーツに乗って颯爽と荒野を駆けている空撮の画になって、あの素晴らしいメインテーマがドカンと鳴り出す!たとえ凡庸な定型だとしても、着実にやれば物語に絶大なカタルシスをもたらすことを証明した。基本的なことをしっかりやっていて偉い。アグノーツから叱咤されたマンドーの「ハッと」した表情をマスク越しから捉えられたのが、シリーズ全体の勝因に繋がってるはずだ!

 

チャプター2

オープニングは超時代劇。ジャワ族がストリートチルドレンのように見えた。一角獣も獰猛でカッコいい。この回を担当した監督のリック·ファミューラは、この後の担当回でも同様にサグい悪さのような、いままでのスターウォーズにはなかったものを持ち込んで貢献している。(『DOPE!』っていうタイトルの映画を撮ってるくらいの人だし)

 

チャプター3

で自分の心は一気に鷲掴みにされた。物語がまた超西部劇。賞金稼ぎの主人公が組織の掟を破ったたために、自らが賞金首となって命を狙われる。クライマックスは一本道を舞台に、孤立無援の主人公とその行く手を阻む賞金稼ぎ軍団との大銃撃戦!こんなスターウォーズが観てみたかった!と思った人が多いと思う。俺も!そして激渋の存在感のカール·ウェザースが満を持して活躍!ブラスターを両手でしっかり構えて狙いを定めた一撃!きちんと狙いを定め発射する銃撃描写もスターウォーズで観てみたかった!

そして、本当に感動するのはその後やってくるマンダロリアンズの援軍…。序盤では主人公と衝突していたにも関わらず、奇跡のように空から降り立ってくる彼らの姿に(ジェットパックの炎がすごく美しく撮られているのもあって)「なんて…誇り高い集団なんだ」と感動させられた。「お前たち、アジトを変えないといけないぞ」「我らの道!」「…我らの道…!(this is the way…!)」台詞の応酬もいちいち熱すぎる。ここで鳴る音楽がまた素晴らしい。序盤、主人公がマンダロリアンズと衝突したあと、新しい武器を作ってもらいながら、子供時代に家族を虐殺され、マンダロリアンに助けられた記憶をフラッシュバックさせるシーンがある(第1話から振られていた「もしかして主人公は生まれながらのマンダロリアンではないのか…?」というのがハッキリする)このフラッシュバックで流れていた悲劇的なメロディが、クライマックスでは超エモーショナルな勇壮的アレンジでもって再び流れ出す。泣くしかない。音楽のルドヴィグ·ゴランソンは立派な演出家だ。

説得力ある描写で架空の存在にたしかな実在感をもたせるのはスターウォーズの本質。それが物語の展開上の感動にも一致した名シーン。

この回を演出したのは第8話でも見事な仕事をするデボラ·チョウ。ジョン·ファブローのシンプルな脚本を贅肉のない演出(特にロングショットの入れ方が的確なアクション描写)でビシッと締めている。デボラ·チョウがいなかったら、自分はここまでマンダロリアンにグッとこなかったかも。

 

チャプター4。

ブライス・ダラス・ハワード演出回。超『七人の侍』。前話と真逆で演出もアクションも全くパっとせず特に印象に残らないから、『七人の侍』オマージュ以上でも以下でもないものに終わった。シーズン2第3話のハワード演出回にも同じような印象を持つ。各話何回も見直してるけど、ハワードの回は見直したいと思わない。

ちなみにアニメシリーズの『クローンウォーズ』シーズン2、17話にも冒頭で黒澤明への謝辞を出すくらいの超『七人の侍』回がある。こちらは素晴らしい作品になっている。特に「真の強さとは、なにで証明できるのか」という『七侍』の大事なテーマを独自のアイデアと素晴らしいキャラクター描写でしっかり受け継いでいる。

 

チャプター5

デイヴ·フィローニ回。軽い回だけど、フィローニの丁寧さがよくでていて楽しめる。フィローニ演出回は画面のレイアウトと美術や小道具の印象が強く残る。アニメーター出身ということが関係してるとこじつけられなくもなーい。

 

チャプター6

リック·ファミューラ回。ギャングチームがいい。ケレン味たっぷりアクションやホラー映画的な演出もバラエティに富んでいる。特にビル·バーのビジュアルは「え、こいつがスターウォーズのキャラクターなの」と一瞬思ったけど、動いたらちゃんと魅力的だった。ビル·バーまさかシーズン2で重要人物になるとはー。

 

チャプター7

デボラ·チョウの素晴らしい仕事が堪能できる名作回!またまた超西部劇でありながら、夜に焚き火を囲んでいたら化け物鳥に奇襲されるユニークさなどが面白く描かれる。しかししかし、なんといっても一番の感動はタイファイターが空の彼方から飛来するところだろう!空に見える小さい点だった物体が、地面に急降下し、ストームトルーパー軍団が整列する画面のちょうど中央にドーンと着地。その一連をじっくりとしたワンカットで捉えきっているからこそのカタルシスと、改めて認識させられるタイファイターの形の美しさ!ここで流れる音楽がタイファイターが地面に近づくにつれ、限りなく帝国マーチを呼び覚ます旋律に変わっていくのも完璧!上空から地面に降り立ってくるものでカタルシスを作るクライマックスの構成は第3話と同じ。どちらもファブロー脚本だから似てるのは当然だけど、見事に演出してみせたデボラ·チョウは『マンダロリアン』超貢献者。

 

チャプター8

はところが全く面白くない!『マイティソー』3作目といいタイカ·ワイティティはアクションがヘタすぎるというか、そもそも真剣にやる気がないのかも。素晴らしい前話の続きにも関わらず、緊迫感やテンションだけがごっそり抜け落ちてるのが際立って「なにやってんだ!」って感じ。しかも前話であれだけ緊迫最高潮の大集結をした帝国残党軍団との満を持した銃撃戦は、始まってみたら位置関係や距離感も不明な雑乱戦でガッカリ。前話で超カッコいい登場をしたモフ·ギデオンが戦闘の真っ只急にテクテク歩いてきてマンドーひとりに狙いを定めて攻撃する段取りも間抜けにしか見えなかった。そもそも、IGがスピーダーに乗って皆を助けにくる展開も、本来はすごく燃えるはずなのになにかグッと来ない。スピーダーから降りて、いわゆる「スーパーヒーロー着地」ぽくキメてIGが登場するのも軽薄で面白くないというか。第1話で見せてくれた、IGの形の構造が際立つ独自の動きとそれゆえのカッコよさはここにはない。じゃあ、コメディが上手いかというと…。ワイティティのギャグセンスって要はキャラクターに風変わりな言動をさせて、そこから発生した人物同士のやり取りをグダグダさメインに長く撮ってるだけという風に思えて、自分にはただあざとく感じてしまう。今回の冒頭のストームトルーパー2人のやり取りなんかは、このシリーズのテンションには合ってなくないか?ただし、トルーパーの片方を大好きなジェイソン·サダイキスが演じていて、彼らしいめっちゃぞんざいな言い回しとかは笑いましたけど。

なんにせよ、デボラ·チョウの演出が自分にはグッとくるだけに、その後の回でパっとしてないと落胆が大きくなるという第4話と同じ流れを繰り返しましたー。

 

シリーズ毎の出来不出来はあれど、今時珍しいほど大袈裟にしたり大規模にしたりせず、最小単位の物語でじっくり成立させたのは『スターウォーズ』の確立された世界観があってこそでしょう。これと同じ試みが他のシリーズでいま出来るかは考えづらい。

『ランボー ラストブラッド』

派手な娯楽アクション映画であったはずの一作目が、肝心のクライマックスで行ったのはランボーに慟哭させることだった。そのままランボーは逮捕され終わる。しかし物語として何かが解決したとは思えない。実際、ランボーのなかではなにも解決しなかったからだ。

結果、万人を楽しませる娯楽映画としてのバランスを無くしたが、後世に残る名作にはなった。

コブラ』の主人公マリオン·コブレッティ、通称コブラ刑事が犯人を射殺する前に「お前は病気だ。俺が治療してやる」と吐いていたが、その言葉が当てはまるくらいに『ラストブラッド』は病的に思えるほど映画として破綻していた。しかし、ランボーというもう取り返しがつかないほど壊れた人間を描く以上、映画自体もこれほど壊れる必要があった。キャラクターが要請するものに正面から応える姿勢こそ、一作目から貫かれるこのシリーズの真摯さだ(二作目と三作目には一考が必要だ)。最終的に持っていきたいテーマやメッセージにキャラクターと物語を当てはめるのとは真逆だ。

だけど本作に比べれば、前作『最後の戦場』はずっと整った映画に思える。シリーズに見事な終止符を打ってみせた名作でもあった。感動的なラストカットに映される光景には、もうこの先はないなと思わせる。しかし、その先を考えてしまうのがスタローンだ。その諦めの悪さこそスタローンがいまだにスターである由縁だろう。

『最後の戦場』ラスト直後にまずランボーがやったことが、生家の地下に塹壕を作り始めることだったと考えると...あの感動的なラストに泥を塗ったとも言える。序盤、家政婦のおばさんやヒロインらが普通に日常にあるものとして塹壕のことに触れたりするだけに余計に怖い。しかも、その塹壕にヒロインの友達を招いたりする...。とにかく本作は塹壕のアイデアが素晴らしい。ロッキーシリーズのようなポジティブな作品で同じようなことが何度も繰り返され、引き伸ばされると疲れるが、ネガティブなランボーシリーズは同じことを何度も繰り返すのが、無限地獄のように感じられていい。この塹壕には文字通り出口なしの地獄が描かれていた。

監督のエイドリアン·グランバーグは、メル・ギブソンの助監督出身。『アポカリプト』の第二班監督もやった。監督デビュー作のメル・ギブソンが脚本と主演を兼ねた『キック·オーバー』は本作とは違い終始軽快なアクション映画で素晴らしかった。過剰な暴力描写に対して、ドラマ部分の演出は極めて手堅く端的なのは、メル・ギブソン譲りなのか。本作でもその手腕は発揮されていた。

ちなみにメル・ギブソンの監督最新作としては『ワイルドバンチ』リメイク企画が進行しているようだが、主演最新作はなんとインディーズ暴力映画の新星S·クレイグ·ザラー監督の『ブルータル·ジャスティス』(原題『Dragged across concrete』!!)だ。8月に日本公開も決定した。恐らく本作とはまるで違う、しかし間違いなく同じくらい暴力的で物騒な映画になっているはずで期待が高まる。


https://youtu.be/2p5pdWyyZoc

ゾクゾクする予告編

台詞が正直なのもビックリした。特にランボーがクライマックス前に協力者の女に言う「俺は復讐がしたい」「奴らに死が迫ってることを思い知らせたい」そして「いつになったら終わる?」はいくらなんでも正直過ぎた。物語の構成も、クライマックスに起こるランボーのメガ暴力の一点に向かうことに徹しすぎていて正直だ。その結果、ランボー以外の登場人物たち(動機になったヒロインも含め)の存在感は物語が進むごとに無くなった。それを書き割りのような安直な描き方だと批判することもできる。

ラストで行き場を失くしたランボーは『シェーン』のようについに山に向かっていった。しかし、彼を見送る者は一人もいない。ついにみんな死んでしまったからだ。