『プレデター』
子供のとき日曜の夜にテレ朝を観ていたら、大塚明夫の声で「本日の日曜洋画劇場はプレデター!」という音声がテレビから流れてきた。どうやら、これから放送するらしい。そもそも当時はエイリアンが好きだったのもあって、プレデターにはさほど興味なかったが、暇つぶしも兼ねて大した期待をせず観始めることにした。すると、本編開始前になぜか『プレデター』の大ファンだという長塚京三が出てきて魅力を語り出した。アラン・シルヴェストリによる勇ましさと恐ろしさが見事に同居したテーマ曲が流れるなか、男たちが叫び、肉片が飛び、爆発が起きる様々な劇中映像に、長塚京三の穏やかな語り口の解説が被るのが、トゥーマッチにも程があった。当時の自分は「この人、映画を間違えてるんじゃ....」と思っていたが、あの穏やかそうな人間がこんな殺伐とした映画への愛をテレビで語ってしまうほどのパワーがこの映画にあることを、観終わった時には理解した。それが『プレデター』との出会いだった。今では、人生の映画である。
まず、痺れるのは序盤、アーノルド・シュワルツェネッガー演じる主人公ダッチ・シェイファーとカール・ウェザース演じるCIAのディロンが、出会い頭いきなり握手を兼ねた空中アームレスリングをするところだ。いや、実を言えば、その前のシーンで砂浜にヘリが降り立ち、中からビル・デュークやジェシー・ベンチュラと言った素晴らしい男たちが次々と登場した後、ゆったりと葉巻をふかすシュワルツェネッガーがようやくドーンと現れるところで、すでに痺れているのだが。
話をシュワとウェザースの出会いに戻すと、この空中アームレスリングシーンは、あまりにもインパクトが強いシーンのためギャグ扱いされてもいる。しかし、ここにはきちんと二人の関係性とその後の展開にも繋がるドラマが込められていることを最近になって気付いた。まず当然、阿吽の呼吸でこんなことをする以上、二人は長い付き合いの親友同士である。そして、両者負けず嫌いであり、ダッチが余裕の表情を浮かべることから、筋力では彼の方が優っている。しかし、ディロンは自分からギブアップして負けを認め、ダッチから「どうした?デスクワークで腕が鈍ったか?」なんて皮肉を言われることから、今や二人は立場も違い微妙な距離感があることも匂わされてる。そういった二人の距離感から生まれるドラマを、他では到底お目にかかれないオリジナルな芝居で描いてしまったカッコいいシーンだ。ここで観客の誰もが圧倒されてしまうだろう。
その後は、シュワルツェネッガー率いるレンジャー部隊がジャングルで要人の救出をする展開が、それなりに長く派手な見せ場盛りだくさんで描かれる。これによって、いかにレンジャー部隊の面々が精鋭揃いなのか分かるようになっているだけに、プレデターに一人ずつ容易く惨殺されていくことのショッキングさが増していく。
並行してドラマもしっかり描かれる。CIAで冷酷な人間となってしまったディロンは、実は皆を騙し任務に同行させたため、シュワからの友情と信頼を失う。ソニー・ランダム演じるビリーは、ネイティブアメリカンの血を引く寡黙で高潔な戦士だが、彼は誰よりも早くプレデターの存在に気付き恐怖に怯える。そのことで、周りの皆も恐怖に怯えてしまうのだ。ちなみに、ソニー・ランダムは実生活では本当に凶暴な男で、スタローン主演作『ロックアップ』の現場では、ソニー・ランダムから他の俳優たちを守るためにボディーガードが雇われていたらしい。
ビル・デューク演じるマックは、ジェシー・ベンチュラ演じる親友ブレインを惨殺され仇打ちに燃える、熱いドラマを担うキャラクターだ。月明かりの下、彼が死体となったブレインに向かってかつての思い出話を涙ながらに語るのは名シーンだ。
ついに、プレデターと相対したマックは、仇を打つべくブレインの愛銃チェーンガンで、プレデターが消えた茂みにとにかく撃ちまくる。すると、駆けつけた面々もマックに続き有無を言わず茂みに撃ちまくるのが、信頼に溢れたチームの証明にもなっていて痺れるのだが、とにかく茂みに撃ちまくる男たちと、次々と破壊される木々がカットバックして描かれると、まるで、ただ環境破壊をしているようにも観えてきてしまう。
しかし、ここからの演出が冴えている。撃ちまくった末、一同の弾は尽きるが、マックはそれでも引き金を握り続け、森にはチェーンガンの乾いた回転音だけが響く。皆は撃ちまくった先を確認するが、そこには何もおらず、やがて回り続けるチェーンガンに意識が向かう。そして、ようやくマックは引き金から指を離し、あたりに不気味な静寂が戻ったのちに、シュワの「マック。マック?マック!何を見たんだ?」という言葉から会話が始まる。この一連の流れ含め、本作は迫力あるアクションのケレンと、きめ細やかなキャラクター描写の演出に溢れていて、理屈で考えればおかしく思える展開やシーンに見事な説得力を与えている。
プレデターが怪我をして出血したことが判明すると、シュワは「血が出るなら...殺せるはずだ」と明快かつ、これ以上ないほど痺れるセリフを放つ。そして、そのセリフをきっかけに、アップテンポにアレンジされたテーマ曲(その名も「Building A Trap」)が流れるなか、プレデターへの罠を皆で作る準備シーンが始まる。ここで、手伝いもせずに皮肉を言っていたディロンにシュワが「文句を言う暇に、手伝ったらどうだ!」ともっともな一喝をする。それを聞いて、ディロンは呆れたように笑うが、直後カットが変わると、すっかり半裸になって皆と一丸に丸太の重りを吊るし上げているのが、端的に彼の変化を描いていて感動的だ。このシーンで子供の頃の自分は「筋力があれば全ての物事は解決する」と強く打たれた。『プレデター』はそういう大切なことを主張した映画だ。
本作の監督は、その後『ダイ・ハード』に抜擢されるジョン・マクティアナン。本作には『ダイ・ハード』で本格的に冴え渡る、彼の演出の片鱗がたくさん伺える。特に登場人物の些細な仕草や、人物同士のやり取りで、キャラクターの印象を残すきめ細やかさと、ケレンを両立させたアクション演出が、この頃のマクティアナンは冴え渡っていた。物語も「孤立無援な状況下で繰り広げられる強大な敵との戦い」という点で『ダイ・ハード』と共通しており、特にシュワルツェネッガーが知力を武器にたった一人でプレデターと戦うクライマックスは、実に『ダイ・ハード』的だ。
噂によれば、そもそも『ダイ・ハード』の企画はシュワルツェネッガーの代表作『コマンドー』の続編としてスタートしたものだったらしい。だが、出演作が立て続けに控えていたシュワが降板したことで、企画は『ダイ・ハード』へと結実することになった。そして、皮肉なことに『ダイ・ハード』の誕生によって、特にシュワルツェネッガーが得意とする筋力と勢いで見せ場を作っていくタイプの荒々しいアクション映画は、完全に過去のものへと追いやられてしまうのだった。
『プレデター』は、たった一人になってしまったシュワルツェネッガーがプレデターと直接対決をする後半からが本番だと思う。追い詰められたシュワルツェネッガーは偶然にも泥まみれになった途端、プレデターから気付かれなかったことで、奴には赤外線しか見えないという弱点があることを知り自ら戦いに挑む。ここから、再び準備シーンが始まる。音楽が荘厳に盛り上がるなか、シュワルツェネッガーは中盤の準備シーンで皆と吊るしあげたのと全く同じか、それ以上に巨大な丸太の重りをたった一人で吊るしあげ(ならば彼の筋力は大男、四人分ということだ)、弓矢を作り、全身を泥でカモフラージュしていく。
しかし、シュワルツェネッガーの準備シーンはいつも絶対にカッコいい。そもそも準備シーン自体が、戦いの前に万全の体制を備えることで、己を強くするためのものである。それを、ただでさえ非人間的な強さを誇るシュワルツェネッガーが準備し出したら、普通の人間とはまるで次元が違うとんでもない事態になるであろう緊張が走る。だから、シュワルツェネッガーは準備をすると輝く。反対に人間的な魅力のスタローンはトレーニングシーンで輝く。
だが、ここで準備するのはシュワだけではない。プレデターも準備する。狩った隊員たちの皮を剥がし、肉を削ぎ落とし、骨に磨きをかけていくのが、シュワの準備とカットバックして描かれる。
そして、完璧な準備をしたシュワは松明片手にやおら木の上に登り出し、月夜の空を見上げる。音楽もダダダダダン!ダダダダダン!と盛り上がった末、彼は松明を月夜に掲げ、力強い雄叫びをあげる!その雄叫びがジャングルに響き渡り、プレデターのところまで届く。シュワはその松明を地面に投げ、ボウっと!巨大な炎が上がり、こうして戦いの火蓋が切って落とされる。なんと勇ましくカッコいい。ビジュアルが原始的なのも相まって、もはや、神話的ですらある。
ちなみに子供の時に観た記憶では、シュワの雄叫びを聞いたプレデターも狩った男の背骨を月夜に掲げ、雄叫びをあげてシュワに呼応していたのだが、見直したらプレデターは雄叫びをあげなかった。それは、二作目でやっていたのだった。プレデターも呼応したら完璧だったのではないかと思う。
その後、直接対決の末に、プレデターは武器もマスクも全て外しシュワルツェネッガーに素手の勝負を挑む。プレデターの素顔を見たシュワは「なんて....醜い顔なんだ」と放った後、プレデターがおぞましい叫び声を上げ向かってくるのが、タメとケレンの効いた素晴らしい演出だ。
やがて、仕掛けられた罠によって丸太の重りが直撃しプレデターは破れる。シュワルツェネッガーはすかさず巨石を高く振り上げ、トドメを刺そうとするが、血まみれで苦しむプレデターに憐れさを感じたのか、トドメを刺すのをやめてしまう。そして、こう問いかける「お前は一体なんだ?」すると、プレデターも真似て「お前は一体なんだ?」と返すと不気味に笑い出し(この笑い声も惨殺されたビリーの真似だ)腕に取り付けられた装置をなにやらいじりだし、カウンターのようなものがピッピッピと起動する。その時、シュワは勘付いた。コイツは自爆をするのだと!
その後のシリーズで、プレデターは文明的な生物であり、戦いを通じて人間と理解しあうことが可能だと言うことも明かされていくが、この時点ではまるで理解が出来ない未知の存在だ。人間の情や理解などを嘲笑い、全てを道連れにするため自爆して見せるプレデターの姿は、この世界には絶対に理解しあえない他者がいるということを我々に強く認識させる。そういった恐怖が一作目にはしっかりと刻み込まれている。
そして、絶対に重要なのは、シュワルツェネッガーがまるで地球の命運や、無垢な人々を救うためなどと言った「何かのために」戦っているのではないということだ。では、仲間の復讐なのか?しかし、彼を見ているともはや死んだ仲間のことなど頭に無いように見える。
そう、ここにあるのは「俺だけは生き残る」という強い生存本能だけだ。その、人間の根源にある本能を賭けてシュワルツェネッガーはプレデターと戦っているのだ。彼が手には槍を握り、身なりは半裸と、後半に行くにつれて姿が原始的になっていったのは決して偶然では無い。密林で宇宙から来た化け物と戦うシュワルツェネッガーに、むき出しになった人間の姿が浮かびあがってくる。ここには、我々が容易に理解できるような(今日的なと言ってもいい)安易な共感や感情移入などでは、決して到達できない感動がある。
キノコ雲があがる大爆発をシュワは生き残り、もちろん勝利を収める。しかし、仲間はほぼ全滅、ジャングルは核爆発で焦土と化し、あたり一面にはなにも残っていない。救出にきたヘリにシュワが乗って去っていくラストカット、ハッピーエンドの安心感に包まれた穏やかな音楽は転調し、またもあのテーマ曲が流れ出すことで、戦いの結果、得たのは未知への恐怖と、永遠に尽きる事のない生存本能なのではないか、そんな緊迫感を残し映画は終わる。
そんな殺伐とした映画なのに、そこから始まるのは、おそらく撮影の合間に撮ったと思われる、出演者一人ずつがカメラに向かって笑顔を送るカーテンコールスタイルのエンドクレジットだ。しかし、シメはシュワルツェネッガーが険しい顔で振り向くストップモーション。やはり、緊迫感に戻って幕を閉じるのだ。
こうして考えてみて分かったのは、自分はプレデター自体には本当に興味ないという事だ。登場する男たちと、彼らの戦いの様子と、何よりもシュワルツェネッガーにしか興味がない。本作は『プレデター』ではなく、いっそ『アーノルド・シュワルツェネッガー』という題名ですらいいと思えるくらい、彼が輝いている映画だ。宇宙から来たバケモノと戦ったことで、シュワルツェネッガーの魅力を強力に引き出すことができた最高傑作だと思う。