『アベンジャーズ エンドゲーム』普通の映画ではない

ネタバレしてます。

 

サノスがどれだけぶっ殺し甲斐のある悪になれるか期待した。前作のサノスには同情や理解の余地が生まれていたから悪ではなかった。あれは敵だ。自分にとって敵は殺したくならないからグッと来ない(最近の映画でいえば『ブラックパンサー』のキルモンガーは敵。途中で殺される片腕サイボーグの男こそが悪といえば分かりやすいかも)

開幕早々あっさりとサノスを殺すことができてしまったのに驚いた。これでアベンジャーズを手も足も出ないほどの窮地に追い詰めたのは良い。それに前作のサノスがリセットされて、また別のサノスが観れるかも!と期待が高まった。が、しかし前作のサノスが易々と片付いたあとに唯一残ったミッションは消されたヒーローたちを復活させることのみになる。物語がそこに向かうとなるとサノス自体が実はどうでもいい存在になり、いずれ訪れる直接対決が盛り上がらないかも...という不安もよぎった。で、その不安通りになった。

すべての石を手に入れたアベンジャーズ側が、消されたヒーローたちを復活させるべく指パッチンした直後にサノスが本拠地に爆撃をかましたことで一気に冷め始めた。どんな手段を使ってでもヒーロー復活を阻止しなければならないはずなのに、どうしてパッチン前に爆撃しなかったのか。まんまとアベンジャーズの裏をかいているにも関わらず後手に回るなんてあり得るのだろうか。しかも手当たり次第爆撃し本拠地を瓦礫の山にしたことで、ストーンがどこにいったのか分からなくなり、敵も味方も一生懸命探さざるを得なくなる始末で、爆撃自体にもなんの意味があるのか分からなくなる。

パッチン前に爆撃していれば、旧アベンジャーズメイン三人とサノスの決戦が、消されたヒーロー復活を賭けたものになりもっと盛り上がったのではないか。それで本当にもうダメかと思ったところで、なんとかパッチンできてすぐにヒーロー大復活!でもいいのでは。ただしこれだと現状より短い間隔でもう一度サノスを消すためのパッチンをしないといけなくなり今以上にアホっぽいのかもしれない。

なんにせよ、現状の展開ではいくら窮地に追い詰められても「どうせみんな復活してるんだから、グッドタイミングで駆けつけるんでしょう」と安心した状態で先の展開が読めてしまい、さっぱりハラハラしないし盛り上がらない。だから「盾をボロボロにされてもサノスに立ち向かうキャプテンアメリカ」という、本作中最もヒーロー映画として普遍的な感動に迫りかけた展開も、復活したヒーローたちが駆けつけるまでの引き伸ばされた見せ場にしかなってない。

というか、アベンジャーズたちは一度目のパッチンで、まずサノスを消しておけば良かったのではと思えてくる。

その手の「なぜもっと早くそうしなかったのか?」「なぜそれを知ってるならもっと早く言わないのか?」系の疑問や不満は前作から尽きない。特にもはや何でも出来るはずのストーンとドクターストレンジの魔法などは、強さのレベルや質が展開に応じて変わるため、単に作り手が誘導したい方向に持っていきやすくするための都合の良いアイテムにしか思えなくなる。

そもそも前作。サノスの指パッチンで消される奴はランダムに選ばれたはずだったのに、なぜか旧アベンジャーズメンバーが消されなかったのには納得がいかない。せめて作品内でもっともらしい理屈や説明をつけてくれるなら良いが、それが無いから「ああ、本作で出演契約が終了する旧メンバーの物語は完結させる必要があって消すわけにいかなかったのね」という作品外の都合しか見えず物語から冷める。しかし、もはやそういった作品外の都合や事情を観客はくみ取って好意的に解釈してくれることをマーベル映画の作り手は分かってやっていると思う(実際そうなってる)そういうものを汲み取る気がない自分にとっては、いわゆるご都合主義というやつがあまりにも平然とまかり通りすぎていて映画として満足しない。

アイアンマンが死ぬ展開にもさっぱり納得いかない。ソーやキャプテンマーベルやら他にもたくさん人知を超えた攻撃に耐久して助かってきた人外のキャラクターがいるのに、どうしてあの場でアイアンマンが自己犠牲しないといけなかったのか。前作でドクターストレンジが見てきたとか言う何億何千分の一の勝利がまさにアイアンマンの自己犠牲だった、というのが作品内で用意した理屈なのかもしれないけど、キャラクターの行動原理や展開を「そういう運命なんです」で片付けていいなら、何でもアリになってきてどうでも良くなってくる。だいたいストレンジは勝利する方法を知っているならもっと早く明言しろよと前作でも思った。あと本作中盤、タイムトラベルして(この展開は楽しい)ハルクがストレンジの師匠から石を貰いに行くのも、出会い頭に「ストレンジは未来でストーンを渡す」とハルクがちゃんと言えば無駄に揉めずに済んだことだし、だいたい師匠は未来を見てハルクが来た理由を瞬時に察したはずなのに、なぜそのことには気づかないのか。もう良くわからなーい。

 

ぶち嫌いだったのはクライマックス、女ヒーロー達が集団になるところ。全宇宙の命運がかかった大規模かつメチャクチャな戦場で、まるで事前に打ち合わせでもしたかのように女ヒーローたちが突如一同に会してる時点で真剣に観る気がなくなった。同様の展開は前作のクライマックスでもあったが、あれは「女ヒーローたちが偶然近い位置にいた」というこれ以上ない理屈と必然を用意してたし、人数も合計三人だけで無理がなかったが、今回は総勢十人以上であるからあまりに無理がある(しかも集まってやることは最年少のスパイダーマンの護衛だ)やるなら前作同様観客に「そうなるしかないな」と思わせればいいだけだ。それこそ事前に打ち合わせしてるシーンを入れたるか、あるいはリーダー格のマーベルが女ヒーローたちだけに集合をかけるか、それくらいぐうの音も出ない必然を作ろうともしないで唐突にやるから、この展開が「ああフェミニズムに配慮したんですね」としか思えない。

断っておくけどフェミニズム自体はなにも悪くないし、全世界規模で公開される大作映画がこういったメッセージを打ち出すことは極めて誠実かもしれない。しかしその「誠実」はフィクションにとって必ずしも誠実とは限らない。たとえ現実社会にとっては正しいメッセージを打ち出していても、フィクションとしてきちんと面白く必然性もって再構築されたものになっていないなら、そんな正しさには一切価値がない。このブログでもこれまで散々文句を書いてきたが、現実で正しいことが映画にとっても正しいことなのだと信じて疑わない価値観は本当に危険なことだ。しかし、現在のエンタメを代表する映画がここまで白々しいことを大っぴらにやらないといけないレベルまで来ているのかと思うとこれは真剣にヤバいと感じた。

そもそも、女だけを束にさせてる時点で特別に配慮している感じが出ている。それは本当にフェミニズムであり男女平等なのか?男に置き換えても同じことをできるのか考えてほしい。こうやってまるで腫れ物に触れるようにエンタメ映画が女(に限らず特定の人種、立場)を扱っている以上、真に普遍的な存在として描ける日はどんどん遠のくんじゃないか。こんな展開をやられるくらいならテロップで「男女平等」とでも書いて画面に大写しにされた方がマシだ。『キャプテンマーベル』の普遍的女ヒーローに感動しただけに怒りが大きい。

 

本作が『エクスペンダブルズ』シリーズのようにガサツなところが魅力の映画であるなら文句は言わない(仮にエクスペ劇中でスタローンの背中からなんの理由もなく翼が生えたりシュワルツェネッガーがなんの理由もなく巨大化しても自分は怒らないと思う)

ただし本作は違う。今までマーベル映画はウェルメイドな物語作りをちゃんとしていた。なのにどうして前作から続いてこんなことばかりなのか。

安易な手段や作り手の都合によるものと思わせずにご都合主義やベタをやって見せるのがエンタメ映画に必要とされることではないか。しかしもはやマーベル映画にそんなことを望んでも仕方ないのなら、自分は今後熱心に観なければいいのです。

5月2日追記:すごく大事なことを書き忘れていた。スタローンは『ガーディアンズオブギャラクシー2』に登場したため彼もマーベルユニバースの人間だ(エンドクレジットにも登場して「俺たちもいっちょやろうぜ!」と言っていたが、いつ彼の主演作は作られるのか)

だから本作クライマックスのヒーロー大集合シーンで、もしやスタローンも火花のゲートから出てくるのではないかと思って涙ぐんだ。もちろん出てこなかった。