スティーブン・セガールについて 前編

出演作品のほぼ全てがひどい俳優。特に近作でのアクションシーンは手をクルクル回すセガール拳をアップの画で2,3カット押さえといて、それ以外はスタント任せにしていることを隠そうともしない体たらく。しかもアップのカットではセガールに照明がきちんと当たってなく、暗闇の中、ぼんやりと存在していることが多くてみづらい。幽霊のようにすら見える。晩年のマーロンブランドのように、だらしない体型を隠したいのか?

それと、これはセガール個人の責任ではないかもしれないが、近作ではポスターのメインになっていたりしながら、主演ではないことも多く、合計出演時間10分にも満たなかったりするのも批判を買っている。

出演作品のひどいアクション俳優は他にもたくさんいる。しかし、出来は悪くても俳優本人は常に懸命にやっているし、その作品毎のチャレンジ精神も見えるものです(それが成功するとは限らないけど)しかし、セガールには志もやる気も感じられない。金のためのやっつけ仕事のようにしか見えない。

撮影現場での態度もひどいらしい。勝手に脚本を書き換え、遅刻早退をし、取り巻きに撮影妨害をさせたりと、まるで輩のよう。恐らく「俺の顔に照明をあてるな」とか「もうこれでいいだろ」とかワガママを言っているのだろう。

やたらと女を侍らせている展開や設定が多いのも、本人の要望によるものと思われる。しかも女といっても、娼婦をそのまま連れてきたのではと疑ってしまうような見た目の女だ。セックスするときは女は脱がせてむせかえるようなキスをして、身体中をねっとりと触りまくるものの、セガールは一切脱がない。観客に対するサービスというより、セガールの公私混同なのではないかと邪推してしまい、観ていてとても気分が悪くなる。念を押すように、女性に対するセクハラとレイプ疑惑metoo運動以前から浮上していることがこれらの展開をより一層キツいものにする。

こう書くと全く良いところがないではないか!レイプ疑惑に関しては最低の犯罪である。セガールはテキサスで副保安官もやっているが、まずお前が逮捕されなければいけないのでは?映画も最低、本人も最低という始末では擁護のしようがない。どうしてそんなやる気もない奴がコンスタントに映画に出続け、それなりの人気を獲得しているのか。それはセガールにしかない唯一無二の魅力があるからだ。だから毎回観たことを後悔し、文句を言いながらも新作が出れば観てしまう。では一体、セガールの魅力とはなにか?そしてそんなセガールにしかない魅力を最大限生かした近年の大問題作『沈黙の粛清』についてはまたの機会に書きます。

『クリード 炎の友情』

本作最大の物語的ハードルは「なぜアドニスがドラゴ親子からの挑戦を受けるのか?」にある。アドニスは前作で、父親であるアポロの呪縛を解消し、自分が何者なのかを見事に証明した。それが果たされている以上、アドニスには戦う必要がない。もし、アポロの敵討ちなのだとしても、それはロッキーがすでに行っているから意味がない。アドニスにとっては一切利がなく、それどころかかつての呪縛に逆戻りしかねない無駄な戦いに、それでも身を投じるのはなぜか。このハードルを乗り越えれば「自分が信じることを最後までやり遂げられるのか?」というロッキーシリーズのテーマに相応しい燃える感動が待っている。それが一番楽しみだったのだけど、本作はそこを乗り越えなかった。最初にアドニスがドラゴ親子と戦う動機は「挑戦を受けたから」あるいは案の定の「敵討ちだから」程度の、極めて安易なものにしか見えなくて全く燃えなかった。

そして、ドラゴと戦うことを決めたアドニスとロッキーが仲違いをする展開にはさっぱり乗れなかった。前作であれほどの絆と信頼を築き、お互いを支え合ったはずのアドニスがロッキーに「俺が看病してやったんだ。俺がいなければ、あんたはただの孤独な老人じゃないか」なんて、浅はかなことを言うとは思えない。いくらチャンピオンとして自信をつけて、多少はおごり高ぶっていたとしても、前作と地続きのアドニスには見えなかったし、この台詞にはロッキーとアドニスをひとまず決別させたいがための安易な作為しか感じず、前作のふたりの友情に感動した自分はがっかりした。しかも、この仲違いはすごく説得力のない形であっさり和解してしまう。これでは、いよいよ上映時間を埋めるために用意した無駄な水増しにしか思えない。

このふたりの無駄な決別に限らず、本作でアドニスに降りかかる葛藤のすべてが、本質的には前作で描かれたことの繰り返しでしかない。悪い言い方をすれば蛇足である。『ロッキー』一作目以降と同じような問題に『クリード』まで陥った。しかし、ロッキーシリーズの水増しは、その都度描かれるロッキー自身の不真面目さや、すぐ調子に乗ってしまったりする人間臭いチャーミングさで乗り切れた(あと、コメディリリーフのポーリーの存在が緩衝材になっていたのも重要だ)そうした、チャームがアドニスには欠けているから観ていて重い。彼はいかにも現代の若者として、様々な葛藤に真面目にぶつかり誠実に悩む。前作ではそれが熱いドラマに昇華されていたけど、こうして希釈した形で繰り返されるとただ単につまらない。子供が難聴なのはたしかに深刻な問題だけど、泣いたり叫んだりして、もっともらしく悩んでみせてるのは映画としてはつまらない。それに、ロッキーの薫陶を受けた男が、そんなことでうじうじ悩むのはナンセンスだと思った。

ロッキーに降りかかる葛藤ももちろん繰り返しだ。 前作では台詞で説明された程度の実の息子の件が、本作ではガッツリ浮上する。離ればなれに暮らしていて何年も連絡をとっておらず、産まれた孫にも会わせてもらっていないのだというのだが、『ファイナル』で息子との物語は完結したのに、また仲違いさせるのかとうんざりした。要は、アドニスと無理矢理な決別をさせたのも、すべてはロッキーを孤独な老人に仕立てあげたかったからなのだろう。しかし、ロッキーの孤独というのも、すでに前作でしっかり描かれていた。ポーリーもエイドリアンも死に、ただ一人残されたことで生きる気力を失い「早く死にたい」と言うロッキーの孤独や絶望は「息子に会えない、孫に会えない」などというありきたりなレベルをはるかに超えて真に迫っていたし、あまりにも悲しかった。

しかし、血は繋がらずとも同じ志を持ったアドニスビアンカと前作で出会ったことで、新たな家族を得て、ロッキーは希望を取り戻したのではなかったのか?

ラストでロッキーが息子の家をサプライズで訪ねに行くと、息子は何事もなく迎え入れてくれて、孫に「お爺ちゃんだよ」とあっさり紹介する始末。こんな無駄な水増しのためにロッキーを再び孤独な設定にするのは失礼ではないか。それに、ロッキーの癌のことも知らないと思われる息子の登場で泣かせようとするのも極めて安易だ。

このラストでアドニスとロッキーはそれぞれ自分の家族の元に帰り、別の道を行くように描かれていた。自分にはまるで「自分の血縁者こそが真の家族だ」という、つまらないメッセージに思えて、ここにもさっぱり乗れなかった。それに、旧シリーズに登場したキャラクターや主要人物の血縁を引っ張り出して安易な感動を作ろうとするのは、最近のスターウォーズをはじめとするフランチャイズ映画全体に蔓延する悪いところでうんざりする。

しかし、そうしたシリーズとしての限界を乗り越えられるポテンシャルというのが、敵役のドラゴ親子にはあったのに、そこを全く有効活用できなかったのはもったいない。

全てをロッキーにかっさらわれたことで、国を背負う英雄からどん底に落ちるが、それでも再起をかけるドラゴの姿というのは、ロッキーともアドニスにとも違う主人公として、まさに『ロッキー』シリーズに相応しいのだ。しかし、本作は上映時間の大半をアドニスの凡庸なドラマに割いてしまい、ドラゴにはしっかり踏み込まないのがもどかしい。そもそも『クリード』だって『ロッキー』のスピンオフなのだから、続編ではドラゴをメインにした、さらなるスピンオフにしたって良かったと思う。そしてタイトルも『ドラゴ~クリード2~』にしたってよかった。

今までの『ロッキー』シリーズがしっかり焦点を当ててこなかった、敵のキャラクターをメインにすれば、新たな物語を描けたはずだったと思う。終盤でドラゴ親子の物語は一気に盛り上がりたしかに感動的にはなっていく。ブリジット・ニールセン演じる母親から再び見捨てられても立ち上がらざるを得ないドラゴ息子の姿が、本作で最も感動的な瞬間だ。やがて迎えた決着はたしかにドラゴの物語としては上手く考えたものだとは思ったけど、あのタオルを投げる画をスローモーションにして大仰に描いたのは演出として失敗だったと思う。そういうのは、さりげなく描いてこそ、大きな感動が宿るのではいか。前作はそういうことをしっかり押さえていて、改めて良くできた映画だったんだなあと思った。

2018年の映画

2018年の映画は面白くなかった。特に主流になったエンタメ映画は、リベラルなテーマやメッセージを打ち出すことを目的化したものが多いように感じた(1/16追記:内容がリベラルなものに限らず、テーマやメッセージに物語や人物が従属したように感じる映画が多かったという言い方が相応しいかも)そういうものは自分にとって、現代の観客にもっともらしく受けることを狙っているだけのようにしか思えず、映画としての面白さや魅力を感じることができなかった。

 そんな2018年で好きだったのは

ダウンサイズ

『ビリーリンの永遠の一日』

パディントン2

『ザ・プレデター

『恐怖の報酬』(フリードキン)

『GLOW』

『アドベンチャータイム』

『グラビティフォールズ』

映画は5つ。18年に公開された新作は実質『ダウンサイズ』『パディントン2』『ザ・プレデター』だけ。新作でダントツに好きだったのは『ダウンサイズ』。尊敬するアレクサンダー・ペイン監督が、またもやしみじみと胸に迫るユニークで面白い人間ドラマを観せてくれた。2017年に日本ではDVDスルーで公開された『ビリーリン』もしみじみとしたドラマとユニークさが両立していて面白かった。この二つには現代社会に対するテーマやメッセージも込められているけど、それ以前に、安易な共感や感情移入などに頼らず、人間ドラマを描いているのが何よりも素晴らしい。自分はこういう映画が一番好きだ。

パディントン2』は2018年最も素晴らしい王道娯楽映画。映画とはこうあるべき!と思った。『ザ・プレデター』のバカバカしさにも映画とはこうあるべき!と思った。

リバイバル上映されたフリードキンの『恐怖の報酬』は、情け容赦のないアクション映画だったとしか言いようがなく、たとえ現代の映画が束になってかかっても勝てないであろう尋常じゃないパワーに満ちていた。

Netflixドラマの『GLOW』は自分にとっての『ロッキー』枠。つまり観る者を奮い起たせる大事な作品だ。「生活保護クイーン」は今年最も心を掴まれたキャラクターのひとりです。

しかし、2018年に観たあらゆる作品のなかで一番好きだったのは『グラビティフォールズ』と『アドベンチャータイム』。両方とも18年に最終回を迎えたテレビアニメです(2/3訂正:『グラビティフォールズ』は2016年に最終回を迎えていました)
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カートゥーンネットワーク製作の『アドベンチャータイム』は、魔法と科学が入り乱れるぶっ飛んだ世界を舞台にしたナンセンスアニメ。毎回、アホみたいな造形のキャラクターたちと、起承転結など存在しない無秩序な物語が繰り広げられるものの、実はキャラクターたちが背負う重たい過去などが次第に浮かび上がり、回を重ねるごとに物語が奥深くなっていくところがグッと来る。そのせいもあって、世界観のぶっ飛び具合に反してキャラクターには妙に生々しい実在感があるのが新鮮に感じた。そして、毎回ギャグがめっちゃ下らなくて最高。
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対照的に『グラビティフォールズ』はディズニー製作なだけあって、あらゆる面で王道をいくアニメ。連続ドラマ方式に回を重ねるごとに伏線や謎が次々張り巡らされ、世界観や物語が壮大になっていく作劇が真っ当に面白く素晴らしい。一話ごとの完成度も高い。そして、ギャグが毎回めっちゃ冴えている!現行のハイクオリティで壮大な海外ドラマシリーズのような試みを、子供向けアニメでやってのけた意欲的な作品だと思う。

この両作品とも、過激な下ネタや残酷ギャグなどの露悪に走って、観客の的を絞った面白さを狙ったりせず、子供も大人も引き込める普遍的に面白いことをやろうとしているのが素晴らしい。まだ、観進めている最中なので最終回に向かっていくのが楽しみです。

2019年は『クリード2』『ミスターグラス』『ゴジラ2』『スパイダーマン スパイダーバース』『レゴムービー2』『ヴァイス』『アクアマン』、引き続き『アドベンチャータイム』『グラビティフォールズ』が楽しみっす。

『ボヘミアン・ラプソディ』

いわゆる「ショウビズもの」の定型をなぞっただけのような物語は凡庸に感じた。フレディー・マーキュリーという、まさにフィクションのようにドラマチックな人生を送った人物を扱っておきながら、映画として凡庸なのは勿体なくないか。もしくは、言い方は悪いけど、あまりにも出来すぎた人生すぎて、いざ二時間の劇映画に纏めてみると、よくあるものに見えてしまったということなのか。

定型を飛び越えることが出来なかった原因は脚本の作劇にあるけど、演出にも大いに問題があるように思う。演出は総じて紋切り型で、悲しいシーンでは、役者にただ悲しい芝居をさせて、楽しいシーンではただ楽しい芝居をさせていて、どのシーンも単調な絵解きに見えてしまう。カメラワークと編集も単調だ。基本、人物を単独のアップで切り取り、人物が喋りだしたところで映して、喋り終わったところで律儀に切る。重要なことを言う時は、ほぼド正面からカメラがゆっくり人物に近づいていく。ほぼ全編これで、演出にメリハリやこだわりを感じない。これはブライアン・シンガーの監督作ほぼすべてに感じることだ。シンガーは撮影中にトラブルを起こして途中でクビになったらしく、デクスター・フレッチャーが後任の監督をしたらしいけど、フレッチャーが監督した『イーグルジャンプ』も同じようにメリハリのない映画だったから、演出の単調さは統一される結果となった。

しかし、クライマックスは案の定感動的だった。楽曲の力との相乗効果で、凡庸な物語が物凄いドラマに昇華されるカタルシスがあったように思う。それを成し遂げるのは、音楽映画としての義務だけど、まさにクイーンの楽曲と同じような、全てを吹き飛ばす力強さが、ここには間違いなくあった。

 

ちなみに映画館で観た際、本編終了後に場内が明るくなると自然な拍手が起きた。拍手が終わるとどこからともなく「いま、最初に拍手した人、グッジョブ」という声が聞こえてきた。その声はその後もなんか色々なことをぶつぶつ言いながら、自分が座る最前列の方まで近づいて来た。声の主は還暦過ぎていると思われるオヤジで「俺も一曲歌う。アーティストはこれくらいやんなきゃダメなんだ」とかなんとか(他にもとにかく色んなことをぶつぶつと)言って、「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」の独自翻訳による日本語バージョンを熱唱しだした。「お~れたちはチャンピオン~♪」と歌うオヤジを、自分は座って見守るほかなかった。見守ったのは、この圧倒的に不利な状況下、たったひとりで歌いだしたオヤジに感心したのもあるけど、それ以上に、自分の目の前で歌われた以上、立ち上がることが出来なかったからだ。オヤジは最後の方は声が掠れて出なくなりながらも、なんとか歌いきった。ようやく終わったかと安心して席を立とうとしたら、オヤジは続けて天国のフレディー・マーキュリーを追悼しだすと、どんどん今年死んだ著名人(ほぼ日本人)にまで広がりだし「天国の津川正彦さんにも捧げます....」と言い出したあたりから「やっぱり立ち去するべきだった」と強く思った。しかし、津川雅彦を追悼して本当にようやく終わった。自分を含め最後まで見守り続けた数人は拍手をするほかなかった。新宿tohoのTCXスクリーンを五分間、自分のコンサート会場にしてしまったオヤジはすごく満足したようで、終わった後は、他の劇場から出てきた関係ない客にまで「ありがとう!」と言っていた。こうして『ボヘミアンラプソディ』のことを思い出すと、このオヤジのことまでセットで思い出すようになってしまいました。

『裸の銃を持つ男』シリーズ

数年前、話題になった『アデル』という恋愛映画をこの前観ていた。物語中盤、主人公の浮気が恋人にばれ、別れ話を切り出される展開がある。お互い眼には涙を浮かべ激しくぶつかり、やがて暴力的な掴み合いに発展する。演じている女優二人の激しくて重たい演技と、手持ち撮影の露骨に生々しい画面も相まって、息がつまりそうになる展開。こういう重苦しくて真面目なだけの映画を観ていると、無性にくだらないことを起こして、映画をぶち壊したくなってくる。もし、この二人の取っ組み合いが次第にプロレス技に発展し、解説者までもが登場して実況を始めだし、家が破壊されるほどエスカレーションしたら......。『裸の銃を持つ男』ならやりかねない。
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裸の銃を持つ男』は、ベタな刑事映画の定型をなぞりながら、全てのシーン、全てのカットの隅々にまでところ狭しとふざけたギャグをぶちこんだ、いわゆるパロディ映画だ。しかし、ふざけようがあまりにも凄まじいため、もはや刑事映画というジャンルに限らず、全ての映画が内包してしまう定型を徹底的に破壊してしまうような、まさに映画テロリストのような作品だ。これを観てしまうと、安直な定型的展開(たとえば、悪役は髭が生えてるとか、クライマックス前にヒロインが捕まってしまう)が陳腐に思えて、真面目に観れなくなる。それだけでなく、『アデル』のように決して安直ではない、真剣な映画を観ているときにも、その真剣さがもうアホらしくってしまうこともある。

主人公であるフランク・ドレビン警部がまず凄い。彼は車を駐車すれば、それによって必ずなにかを破壊してしまい、部屋に入ろうとドアを開ければ、必ずそのドアにを人にぶつけて殺してしまう。ひとたび彼が何かをすれば、世界は激しく引っ掻き回される。演じるレスリー・ニールセンは変顔などせずに、飄々とした表情でそれらをやってのけてしまうのが怖い。そして、主人公として求められる品行方正さや正しさから開放されているところに清々しさを感じる。しかし、こんな人間が主人公である以上、映画は正気ではいられない。

ギャグに対するアイデアの豊富さ、金のかけ方は他の追随を許さない。全編に仕掛けられたギャグの数々は、登場人物が反応して拾うものもあれば、しないで流れていくものもあるため、観客が注意を凝らして見つけなければならない。それくらい贅沢ということだ。

重要なのは、この映画のギャグが知的さに裏打ちされたものなどでは決して無く、とことん即物的なものでしかないことだ。それは、この映画の態度でもある。ハートウォーミングな要素や現代社会へのメッセージを込めて「ただのコメディ映画ではございません」と気取って見せるのではなく、本当にただくだらない映画として存在し続ける。コメディ映画はこれくらいのバカバカしさをもってこそパワーを発揮する。この世の全てをバカにし、解放させてくれる。だからこそ、自分はコメディ映画がいちばん好きなんだ、ということに改めて立ち返らせてくれる映画でもある。

『ザ・プレデター』幼稚で真摯な小学生


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脚本が重要だ。シェーン・ブラックとフレッド・デッカーが共同で書いている。このコンビはかつてデッカーが監督、ブラックが共同脚本で『ドラキュリアン』という名作を生み出した。当時、監督として名を上げていたデッカーだったが、脚本家としてのブラックはまだ無名に近かった。デッカーは次に『ロボコップ3』に大抜擢されるが、世間の評価はとても低く、それが原因なのか、その後は大きな表舞台からは遠ざかり作品数も激減した。

デッカーと入れ替わるように『ドラキュリアン』以降、名を上げたシェーン・ブラックも、97年当時のハリウッド映画史上最高額と言われる脚本料で書いた『ロング・キス・グッドナイト』の評価の低さが、こちらは間違いなく災いして、表舞台から遠ざかった。しかし、彼は監督として『アイアンマン3』に大抜擢されて、再び表舞台に返り咲いた。そして、依頼されたプレデターの新作に『ドラキュリアン』で無名の自分に仕事をくれた盟友デッカーを脚本に呼んできたのである。この時点で観る前から相当期待があがっていた。

しかし、いざ最初の予告編を観たとき、自分の期待は急速に萎んでいった。子供がプレデターを呼び寄せるというアイデアは、デッカーとブラック以外では、今どきあり得ないものだと感心しつつ、そんなものが今さら面白いのか疑問だった。昨今、流行りの80年代リバイバル的な懐古趣味映画に終わるのではと思った。

実際のところはどうだったか。たしかに、随所に80年代のアクション、コメディ、ホラーを感じさせる部分が数多くあった。しかし、これはデッカーとブラックのセンスがその時代で止まっているというだけのことで、決して懐古趣味やオマージュとかそんな意図から生まれたものではない。もっと純粋であるがゆえの根深い古臭さと幼稚さがこの映画にはあった。そして、その真摯さに感動した。

 

まず、そもそも自分にとって『プレデター』第一作目はこのブログでも書いた通り、すごく重要な映画だ。だから、アラン・シルヴェストリ作曲のテーマ曲が流れるなか、ヘリから男たちが降り立つと、それだけで高揚するものがある。本作はそれを劇中3回もやった。ヘリが飛行する度にテーマ曲を流すのは、流石にくどいと思いつつ、一作目のカッコいいオープニングを執拗にオマージュする姿勢に嬉しくなるのが本音だ。

全体的に過去作へのオマージュの案配は、見せびらかすようにやるのではなく、分かる人だけ分かればいいという気の配り方で、品が良いと思った。くどくやったって前述のヘリくらいだから、物語の流れを止めるほどのものではない。あと、一作目でシュワルツェネッガーが放つ名台詞「Get to the chopper!」をヘリではなく、バイクのチョッパーに置き換えて言うのは心底くだらないと思いつつ、堂々とやるのが流石だとも思った。

 

映画的なエンジンが一気に入ったポイントは中盤のバスジャックからの展開だ。逃げるプレデターと、追跡するヒロインとならず者チーム、しかもその追跡劇に上空から現れた巨大な宇宙船までもが加わる。その4者を同一画面に納めたカメラワークが秀逸でカッコいい。物語と映像の盛り上がりで描かれる、それぞれ別の思惑で動いている事態が徐々に交わっていくまでの高揚感と勢い。ここには映画的な奇跡が起きていたと思う。科学者であるはずのヒロインが、麻酔銃持ってプレデターを追いかけだすのもとにかく勢いがあって面白かった。

そうそう、巨大宇宙船が現れたときに、主人公たちが驚くリアクションをきちんと描いてるのも素晴らしいと思った。「宇宙船を見て驚く」なんて、手垢にまみれた描写でしかないから、最近の大作映画ではストレートにやっているのも少なかったと思う。しかし、バカバカしいものの先に生まれる映画内のリアリティを、真っ正面から描くのはジャンル映画にとって本当に大事なことで、そういうことを律儀にやって、初めて盛り上がるのだなと強く思った。こういうところに幼稚な真摯さが見てとれた。

とはいえ、全体的な作劇はたしかに雑かもしれない。しかし、キャラクター描写や台詞の応酬に関しては、とても丁寧だった。デッカーとブラックは魅力あるキャラの描写に関して相変わらずセンスいいと思った。

障害を持つ息子が主人公である父親に「期待通りに育たなくてごめんなさい」と言う。それに主人公が返す「俺も俺の期待通りに育ってないよ」という台詞には目頭が熱くなった。こういうのが感動的な台詞でありドラマなのだ。他にも表面的にはしょうもなく、下品極まりないようにしか思えない台詞のやりとりから、キャラクターの背景や距離感が浮かび上がるいいシーンがたくさんあった。一見、ふざけてるように見えて、デッカーとブラックは本気だ。こういうところが真摯なのだ。このあたりの手腕に関しては、かなり真っ当な脚本だと言える。逆にいうと、この映画が真っ当に見えるくらい、最近の大作映画にはいかに良い台詞が不足しているかということでもある。

ならず者チームはみな魅力的だが、チーム一番のキチガイを演じたトーマス・ジェーンにグッと来た。彼は『パニッシャー』や『ミスト』で主演を務め一時期はスターにまで登り詰めたが、その後私生活でいろいろとトラブルを起こし表舞台から遠ざかっていた。久しぶりに見た彼の表情からは、かつてのハンサムさが消え、この数年間に味わった苦労がにじみ出ていて渋くなっていた!今後、俳優として良い活躍が増えてほしい。欲をいえば、もっと彼のアクション見せ場が観たかった。

 

クライマックスには少し不満がある。編集を細かくしすぎていて、終盤はなにが起きているのか分からない部分がかなりあった。そのせいもあってアルティメットプレデターとの直接対決も、盛り上がりに欠けたような気がする。クライマックスにも、なにかもうひと超えバカバカしいアイデアがあれば盛り上がったかも。直前に、生身の人間が宇宙船に飛び乗り、迫り来るシールドを飛び越えるなんて展開を堂々とやるのは素晴らしかった。そういうのがもうひとつあれば...。

ただ、そういうのがラストにある。ラスト、あの棺の中に入っているものが「プレデターキラー」という名前だと明かされたとき、中の正体はシュワルツェネッガーだと思って、ものすごい緊張した。しかし、シュワルツェネッガーは出演を断っていたことを思いだし、ならばダニー・グローバーかとまた緊張した。結果はそのどちらでもなく、本当に小学生が思い付いたようなものが出てきて驚いた。最近の大作映画お約束のクリフハンガーを予感させるラストというより「カッコいいのを思い付いたからやっちゃいました」という程度のものでしかない感じが良い。しかも、実際にはそこまでカッコよくないのも良い。

 本作は世間的な高評価を受けないだろう。実際、映画館で観たとき怒って出ていく観客もいた。ブラックのキャリアが今後続くか心配でもある。しかし、どれも似たようなつまらなさを抱えつつある現在の大作映画界のなかで、現代に通ずるメッセージや政治的配慮などを微塵も考えていない本作が観れたのはとても痛快なことでもあった。まさに、本作のならず者チームのように、世間からの評価など吹っ飛ばして、自分のやれることをやりきったデッカーとブラックは尊敬に値するし、本人たちもどこか幸せなんじゃないかと思う。

『アントマン&ワスプ』

本作に限らず最近のマーベル映画全般、会話シーンがとにかくつまらないと思う。ただ向かい合い喋っている人物をバストサイズくらいで切り取って、工夫の無い編集で繋いでいるだけに見える。マニュアルでもあるかのように決まりきった見せ方。本作で言えば、敵役であるゴーストが身の上話を明かすところがそれに当たる。そもそも、ゴーストが自分にとっては辛い身の上を積極的に主人公たちに話し出すのは唐突に感じたうえ、それを聞いている主人公たちが、単に黙ってゴーストの話が終わるのを待っているようにしか見えないのもあって、観ていてボーッとした。つまらないと台詞も頭に入ってこないから、ゴーストのドラマが伝わらない。派手な見せ場で見せる映画ほど、静かな会話シーンの演出にこそ工夫を凝らして面白くしなければいけないのに、そこを真剣に考えないからドラマを豊かにするはずの会話シーンが段取りに成り下がりつまらなくなる。

かろうじて面白いと感じられる会話シーンというのも、観客がすでに見知っている人気のキャラクター同士が馴れ合い的な交流をしているだけで、本質的にはドラマもへったくれもないものだったりするのだけど、しかし、それが今ではドラマとしての役割を果たしているのかもしれない。それは、自分には物足りないっす。

 

あと、マーベル映画全般の画のルックに関しても、マニュアルがあるかと思えるくらいどれも同じように感じる。具体的にいえば、映画というより一昔前のテレビシリーズのような、画面内全体に照明がハッキリと当たっている安っぽいルック。CGの質感や大きな見せ場の絵作りもいつも同じように見える。だから、いくら特色ある監督の人選をしてもそれぞれに個性を感じない。会話シーンのつまらなさというのもこういったことに起因しているのだろう。もしかしたら、マーベル映画は本当にマニュアルのようなものを用意し、すべての作品に共通性を持たせているのかも。でも、その共通性に高級感や創意工夫を感じないから、最近のマーベル映画を観ていると、立派な作品というより商品を観ている感じに襲われる。そういうマーベルのマニュアルに添えない監督が降板をしていくのが目に浮かぶ。エドガー・ライトもそういうのを味わったのだろう。

そういう意味ではDC映画の方が作品としてのそれぞれの特色や大作としての高級感はあると思う。先日『ジャスティスリーグ』を観たけど、カメラワークも編集もCGの質感もきちんと拘りをもって描かれている感じがして、少なくともルックに関してはマーベル映画よりもひとつの作品らしいとは思えた。

 

本作だけの気になった点としては、序盤が状況説明に終始してもたついている感じがした。それは、アントマンが単独で出演した『シビルウォー』からの物語を引き継がなければいけなかったということと、加えて、本作のいちばんの目的が敵を倒すという明確なものではなく「特殊な状況下にある母親の救出」というミステリー要素も加わったものである以上、仕方ないことなのかもしれない。でも、この設定によりありがちな勧善懲悪になっていないのは魅力だと思うし、本作のライトなコメディテイストに合ってると思う。

しかし、ミシェル・ファイファー演じる母親は存在感あってカッコいいけど、量子世界という異常な場所に30年間も閉じ込められておきながら、再会シーンにばっちり化粧をした姿で登場したのは流石にどうかと思った。

自分の願望としては、あの世界に閉じ込められたことで狂ってしまい、怪物になる人間がどうしても観たかった。そんな人間が悪役だったら強いと思う。

そこで敵役のゴーストが使えると思った。彼女があの特殊能力を手にした原因を、過去のあんなよくわからない爆発事故ではなく、母親のように量子世界に長く閉じ込められてしまったからだ、としたらどうだったろう。そうすれば、主人公たちがゴーストと対峙し身の上を知ったとき、量子の世界に閉じ込められたら決して無事ではいられず、母親もゴーストのようになっているかもしれないというサスペンスが生まれる。だとすれば、クライマックスで無事生還した母親が、同じような能力を持つゴーストを救う展開もより感動的になるのではないかと思った(ゴーストと対比されることで母親の精神の強さというのもさらに際立つのではないか)こうなれば、ゴーストの説明にもそこまで時間がかからないのかもと思ったけど。なんにせよ、母親とゴーストは魅力的なだけに、もっと描いてほしいキャラクターだった。

ただ、自白剤ギャグからは本当に楽しかった。クライマックスのカーチェイスをしながら繰り広げられるお宝取り合い合戦も最高だ。こういう明確な見せ場がもっと序盤からあれば良かったと思う。