アトロクについて

番組放送時に撮影された写真を見ていると、毎回、肝心のゲストや特集に登場するアイテムよりも、アナウンサーの写真の方が多いって何なんですかね。アナウンサーの写真どうでもいいっす。そういうところからも、この番組が本来大事にしないといけないことを見失っている感じがする。僕は少なくとも、アナウンサーを押し出すことはこの番組に一切求めていない。なのにそっちが目的になっている傾向に引っ掛かります。

そもそも、押し出すほどの面白さがアナウンサー陣にあるようには思えない。恐らくただ進行をして相槌を打つだけの存在にしないため、アシスタントそれぞれに性格付けをして個性を出そうとしているのだろうけど、それがこの番組のレベルに見合う面白さでは無いんですよね。

それと、毎回欠かさず聴いていない自分にとっては、アナウンサーをアダ名で呼んだり、あとタイトルコール前のやり取りとかが、温い内輪ノリにしか思えなくて、そのままスイッチを切ってしまうことも多々あります。

その程度の内輪ノリはタマフル時代からもあった。ちゃんと面白いときもあれば、面白くないときもあったけど、良くも悪くも必ず個性的ではあった。面白い個性もないアナウンサーを押し出そうとするから、つまらない内輪ノリ感だけを感じるのかもしれない。そういうのは、つまらないバラエティ番組と変わらないので、この番組では勘弁してほしいっす。

 

内輪ノリの最悪なのが火曜日の宇垣アナウンサー。彼女は一見、自分の考えをしっかりと持った個性豊な人物に思えるけど、実はただ自己中心的で我が強いだけの人物だと思う。自分が聴いた範囲だと、ゲストに対して指摘をするときのタメ口などからそういう無礼さが見てとれた。あの人がそういう言動をすると、宇多丸さん含め、スタジオにいる人たちは笑ってリアクションをするけど、他人への敬意を欠く失礼極まりない人間が、あの番組で持て囃されることにはとても失望する。火曜日は宇垣アナウンサーをメインに押し出すことばかりで、聴くに堪えない。

あの人は日本のアニメや漫画などの、いわゆるオタク的文化に造詣が深いのが人気にもなってるけど、べつにのらくろ鉄人28号のことが話せるわけではなく、ただ自分と同世代の作品を享受してきただけという気がして、その文化への造詣とやらも大したことないように思える。人気が出ているのは、見た目が美人でアナウンサー「なのに」オタクっぽいものが好きで尖ったことも言うからなんじゃないか。そんな見方で消費しているなら当人にも失礼だ。

あと話題を呼んだ『かぐや姫の物語』への宇垣アナウンサーの反応も、特に凡庸な感想だと思いました。というか「どうしておじさんの高畑監督が、女性の気持ちを理解できるんだろう」とか言ってましたけど、それくらいの想像力を持ってる人がいるのは当然だし、クリエイターなら尚更だ。あの人の主張を聴いてると、自分以外の価値観や想像力というものが、この世には存在しないと思い込んでいるような感じがしてしまう。

あの人のフェミニズム的な思想もどうなのか。フェミニズムは結構ですけど、そういう主張をするときに、いちいち男性全般に対してトゲのあることを言うのが、男女間の溝を余計深くしてるんすけどと思う。あの人はフェミニストというより、あくまでも自分個人が社会の型に嵌められたりイメージを押し付けられたり、そういうのが嫌なだだけなんじゃないすかね。本人はそう思ってなくとも、聴いている限りそんな気がする。なのに、フェミニズム的な押し付けがましい主張でくるめるから、聴いていて不快になる。どちらかの性別を一方的に敵とみなすような発言をすることは、性差別を助長すると思うんですけど。

だから、よりにもよって宇垣アナの火曜日に「女子と本特集」(なんだよこのタイトル....)とかやられると、たとえ内容が良いものだとしても、余計な拒否反応が出てしまう。やるとしても、むしろ男性アナウンサーの日にそういう女子とかなんとか言い出す特集はぶつけて、逆に男子とかなんとか言い出す筋肉系の特集を女性アナの日にやるとか、そういう多様なバランスは無いのかと思います。

 

まあ、べつに嫌なら聴かなければいいだけなんだけど、ちゃんと良い特集もたくさんあって勉強になるからそうも言っていられない。特に「戦時下のアイドル特集」とか素晴らしかった。木曜の宇内アナウンサーはアシスタントとしての安定感を大事にした上での面白さもしっかりある人なので好きです。だから、木曜日は充実した特集が多いと思う。

要は、宇垣アナウンサーのような特別な面白さもない、ただの自己中心的な人を持ち上げて内輪ノリに走りすぎると、凡庸なつまらない番組になっていきそうだから嫌だ!ということで。それに、そうなると「アナウンサーは原稿だけ読んでろよ....」という、作り手たちの意図に反する心無い意見も沸き起こるだろうし、(実際、自分の中ではもう沸き起こってる)カルチャーキュレーション番組と謳っておきながら、そんなことをしていては文化の欠片も無くなり間口が狭くなる一方だと思う。自分が聴いた限りでは、宇垣アナウンサーもアシスタントに徹している瞬間が多少あったから、今後変わっていけばいいなと思います。

『インクレディブルファミリー』

登場する悪役の目的や背景が興味深く描かれるだけに、物語上の説得力にまるで欠けていることに引っ掛かってしまった。

悪役の目的というのは、ずばりヒーローの根絶。それ自体は普通だが、その理屈が「人々はヒーローの存在に頼り過ぎるがあまり、受動的になって堕落しているから」なのだと。悪役をそんな思想にさせる背景には、かつてヒーローを支援していた両親の存在があった。両親はいつでもヒーローに助けを求められるよう、専用の直通電話を置くほどであった。そんなある日、自宅に強盗が入り、ヒーローに助けを求めるが、しかしその時がヒーロー禁止法の執行直後であったため、当然電話には誰も出ることが出来ず、自衛手段を持たない両親は無慈悲に殺されてしまったのだった。つまり、人々を能動的にさせるためには、ヒーローの存在を消し去らないといけないのだと。

これが今回の悪役だけど、まず「人々はヒーローに頼りすぎて堕落している」という理屈は、実際に人々が堕落しているという描写や展開が劇中ひとつもないため成り立たない。それもそのはずで、今回は主人公であるヒーロー一家が、序盤で街に現れた悪役アンダーマイナーとの戦いで、さらに被害を大きくしたように世間からは思われヒーロー禁止法が強化されたため、失われた信頼を取り戻すために奮闘するというのがメインのドラマである以上、人々がヒーローに頼りきって堕落させる訳にはいかず、悪役の理屈がさっぱり空回りせざるを得ないのは当然なのだ。しかし、これでは本末転倒である。

それと、両親の死の原因を作ったのは、ヒーローではなく禁止法であるはずだ(禁止法自体がヒーローのせいで生まれたというのは置いといて)。だから、復讐すべきはヒーローを規制しようとする側である。そうなれば、悪役はヒーローの復活を渇望し狂信的な程の支持に向かうのではと思う。例えば『アンブレイカブル』のミスターグラスのように、誰よりもヒーローに憧れを抱き復活を望むがあまり、自らが悪役になりヒーローを生み出そうとするような、皮肉な構図が出来上がり一方的な断罪が出来ない深い悪役になると思う。

今回の悪役は主人公たちのドラマとも鏡像を成し、ヒーローの存在意義を問う深いものを投げかけるだけに、それを強固に裏付ける説得力が欠けているのは致命的だ。なので、本作は主人公も悪役もただお互いの主張をぶつけるだけぶつけて一方的に終わるのが引っ掛かる。せめて、悪役の「人々がヒーローに頼って」云々という主張には、やはり主人公がハッキリNO!を突きつけてほしかった。それで最後に堕落していたと思われた市民がヒーローと力を合わせて戦ったりしたら感動もしたのではないかと思う。だけど、劇中悪役がヒロインのイラスティガールに自分の理屈を話し同意を得ようとすると、彼女は「あなただって私に頼ってるじゃない」と、回答にもなっていない冷淡なことを言って、この件が終わってしまう。

だいたい、特別な能力を持っている人間が、特別じゃない人間のためにその力を使うのって当たり前だし、一体全体なにが問題なのかという気がするから、ヒーローならばそういうことを言わないといけないはずだ。

しかし、バードにとっては平凡な一般市民なんか心底どうでもいい、描くに値しない人物なのだろう。だから、常に特別な能力を持っている強者の理屈からしか物語を描けないバードの作家性の根幹にはすごく冷淡なものが流れていると思う。たぶん、彼は特別な人間とそうでない人間ではっきり線引きをしているのだろう。

だから、本作は主人公と悪役が自分の言いたいことだけを一方的に言って、さっぱり交わらず終わってしまう。これはバードが監督した前作『トゥモローランド』でも起きた事態で、二作続けて同じ歪みを抱えた物語になっているということは、本人は無意識に描いてしまっているんだろう。見事な演出の手腕を持っているのだから、脚本には関わらず監督にのみ徹してほしい。

『ミッション・イン・ポッシブル フォールアウト』

物語は混乱しているうえに雑極まりない。だから、いくらアクションの物量とトム・クルーズ本人のスタントが過酷そうでも、映画としての効果をまるで発揮しない。

たとえば、イーサンがロンドンの街を全速力で走り抜けるシーン。もう一度書くけど「トム・クルーズ本人のスタントが過酷そう」なのは十分すぎるほど伺えるが、あのシーンで起こっていることは「ものすごく危機的な状況にあるにも関わらず、なぜか呑気に歩いてる敵を追う」というもので、物語的には緊迫感の欠片もない。

クライマックスのヘリチェイスも核爆弾の起爆装置を持って逃げる敵を追う、というシチュエーション自体に独創性がさっぱり無い(実際『ゴーストプロトコル』の焼き直しにしか思えない)という弱さもさることながら、そこでイーサンがいざやることにとても引っ掛かる。彼は敵のヘリに巨大な貨物をぶつけようとし、それが失敗すると自らのヘリごと体当たりを何度も試みて、そして実際に体当たりをしてしまうのだけど、これではまるでイーサンの目的が、重要な起爆装置なんて構わず、敵をヘリもろとも破壊しぶっ殺したいというものに見えてしまい、緊迫感を殺いでしまっている。観客をアクションシーンでハラハラさせるためには、いま、この状況下で何が目的とされ、そのためにどうしなければならないかという基準とセッティングを、物語上できちんと明確にする必要があり、特にクライマックスなら尚更だ。だから、こういった引っ掛かりは決して些細なことではない。しかし、本作の見せ場の大半はそういった大事なことを曖昧にしたまま強引に押しきろうとするものばかりで乗れない。これは本作の撮影を脚本が無い状態で行き当たりばったりにしてしまったことで起きた事態だろう。

 

で、先日あるラジオ番組の映画評論で本作が扱われていた。パーソナリティは本作を好評価しており、いわく「トム・クルーズはアクション映画史においてバスター・キートン、ジャッキー・チェンと並ぶか、超えるほどの存在」と言っていたが、この発言にすごく違和感をおぼえた。バスター・キートンとジャッキー・チェンはトムのような、ただ危険で体当たりな負担の多いスタントのみがスゴいんじゃなくて、常人には再現不可能かつ唯一無二の体技が真にスゴいんじゃないかと思う。特に、ジャッキー・チェンの格闘は人間離れした俊敏さと独創性を兼ね備えたまさに唯一無二のものになっている。ブルース・リーだってそうだ。実際、彼らはその後の映画史において誰にも完璧には真似されず、後継者も出現しなかったのがその証明だと思っている。しかし、トム・クルーズのアクションはトム本人が受ける過酷さや負担が(観客が心配になるという意味で)スゴいのであって、先の彼らのように映画として独創性ある唯一無二のレベルのアクションにまでなっているかと言うと疑問が残る。それでも、まだ『ゴーストプロトコル』での高層タワー壁面の駆け回りや『ローグネイション』での離陸する飛行機へのしがみつきは、カメラワークや編集などを含めた見せ方や、物語的な必然がきちんと兼ね備わったことで唯一無二のものになっていたと思うが、そういう演出と物語の知恵を感じず、ただ過酷さ加減でスゴいスタントの物量のみで押しきる本作でのアクションは(何度も書くけどいくらトム本人が過酷な目にあったとしても)無難なものにしか感じない(逆にキートンやジャッキーの映画に物語の必然やうまい演出が不足していも、本人の体技がスゴすぎるため超越した価値が生まれてしまう)

だからこそ、本作がウェルメイドな映画としての完成度は低くても、アクションが凄まじいからOKには決してならないし、そもそもゴーストプロトコル、ローグネイションとアクションの凄さとウェルメイドな完成度も備えたものを過去二作で見せられた以上、本作の力押しで強引に乗り切る感じは、レベルとしては退化したものだとしか言いようがない。

 

ちなみに、そのパーソナリティは「ここまで体を張るトムを観客は拝んで見ろ!」と言っていた。こういう発言をさせざるを得なくしてしまうのも本作の問題だと思う。

今回のイーサンのキャラは今まで以上に、ものすごく善人感を出しすぎだった。しかもそれを物語のテーマに中途半端な形で据えていることもあり、マジでトム本人が拝まれることを望んでいるような押し付けがましさを感じてしまった。実際、メイキングなどで見せる彼の魅力的な姿から、現在のトムがスターとして聖人のような域に達していることは分かるが、それを物語本体には組み込んでほしくはないし、だいたいそれがフィクションとしてさっぱり面白くない。

前二作で押し出されていたイーサンの変人感や独りよがりの危ない奴感、それを周囲の仲間が少し冷めた目で見ることから醸し出されるユーモアによって、観客との一定の距離が保たれていた感じが自分は好きだった。しかし、本作でのイーサン・ハントとトム・クルーズの存在を完全にイコールにし彼の聖人感を物語内でも強調するのは、観客に作品の舞台裏を積極的に読み取らせ物語の欠点があっても、都合のいい解釈をさせかねない点において、とても危険なことだと思う(劇中やたらとイーサンが言う「いま考え中!」という台詞も舞台裏の行き当たりばったりを現しすぎていて安易だ)

そんなことを考えていたら先日、こんな記事を見つけた。

theriver.jp

正直、悪役をきっちり信頼させといて裏切らせ、中盤で観客に失望も含めたショックを与えることが、娯楽映画としては真っ当だと思う(そもそも本作の悪役は最初からアホにしか見えず信頼なんて出来なかったことは置いといて)だけど、トム・クルーズはあらかじめ観客が想定している範疇に合わせる方を選んだ。観客をいい意味で裏切らず、あくまで自ら映画ファン、オタクの代弁者であり続けるようなこの姿勢に今後のトム・クルーズへの不安が増してしまった。

 

しかし、観客の期待やあらかじめ抱いている価値観、想像力を超えず、むしろ積極的にそこに応え、映画の側から客席にすり寄っていく感じは、昨今の主流になっている映画全般に感じることだ(だから、最近の映画は真に観客を驚かせたり、居心地を悪くさせたりするようなことをしなくなってる)そのたびに、こんな態度は大人げないとは思いつつも、映画ってこんなもんでいいのか!と残念な気持ちになってしまう。

『ブリグズビーベア』

この映画でも起きたように、撮影現場での事故や警察沙汰はよくあることだ。特に自主映画なら尚更で、そういう事例は頻繁に聞くし、実際に目にもしてきた。知り合いは俯瞰ショットを撮影したいがために、無断で他人の家の屋根に登り、泥棒と間違えられ、署まで連行された。取調室のような部屋で警官から尋問を受けた際、自分達は映画を作っていると言ったところ、それまで呆れ気味だった警官の態度は一変し、突然理解を示しだしたという。彼にもこの映画に登場する刑事のような過去があったのかも。自分は大量の荷物を両方のハンドルにかけたまま自転車を飛ばして撮影現場に向かっていたとき、荷物が前輪に引っ掛かって後輪が浮き上がり空中で一回転して怪我をした(後ろから見ていた人間いわく「突然中に浮かび上がった」)腕を痛め、大事にしていた自転車がぼろぼろになっても、構わず撮影を続けた。

人はフィクションという嘘の世界に入り込んでしまうと、現実が見えなくなり、冷静に考えたら起こし得ないことを、いとも簡単に起こしてしまう。フィクションは現実を破壊しかねない。だから恐ろしく、そして魅力的なんだと思う。

 

自分を誘拐した犯人の創作物であるブリグズビーベアに魅了され続けた結果、自ら新作を作り出してしまう以上、主人公も現実を破壊し自らを破滅に導くかもしれないリスクを背負っていた。

しかし、本作は周囲の家族や友人がブリグズビーベアを作り続ける彼を結果的に優しく受け入れてくれたことで、観客にとっても口当たりのいいレベルで終わってしったのが勿体ないと思った。

たとえば、誘拐犯が監禁だけでなく主人公に暴行をしていたらどうだったかと考えてしまう。それだけで、主人公がブリグズビーベアに魅了され続けてしまうことのハードルはぐんと上がる。そうなると、家族や友達はさすがに主人公を見放すのではないか?しかし、それでも主人公は止まらず、たったひとりになっても作り続け、いざ完成したものを上映したら、皆から決定的に拒絶されるか、『エド・ウッド』のラストのように、幻の喝采と拍手が彼を包むのかもしれない....。この展開が面白いかどうかはともかく、そうした「たとえ世間的には間違っていたとしても、作り続けざるを得ないという創作活動の業」をもっともっと容赦なく描いてこそ、この題材と物語には相応しいのではと思ってしまった。
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誘拐犯はそれを見事に体現していたからグッと来た。この役をマーク・ハミルが演じたことで、キャラクターの持つ意味や重要性はこの物語で描いたこと以上に増した。このキャスティングの時点で勝利したかなり幸運な映画ではあると思った。

『ディープライジング』シリーズ

5、6年前から超低予算映画界隈を中心に盛り上がりを見せたサメ映画ブームが、ついにジェイソン・ステイサムが巨大サメと戦う超大作『MEG』にまで行き着いた。それくらいサメには人を惹き付けるパワーがあるのか、もしくは超低予算映画から倣わなければならないくらいハリウッド映画界のネタ切れが深刻なのか、理由はたぶん後者だと思う。

ちなみに、この『MEG』には思わず震え上がってしまった。この手の映画のポスター等でお馴染みの、サメが大口を開けてこちらに向かってくるようなビジュアルが自分には本当に怖くて仕方がない。子供の時、ビデオ屋のモンスター映画の棚にこういったビジュアルのジャケットがところ狭しと置いてあったのを見てビビったのが、いまだにトラウマになっている。それととにかく水面も怖い。この下にはなにかいるのではないか、入ったらたちまち引きずり込まれるのはないかと海や川を見ていると常に思ってしまう。だから本当に中身が見えない水に入るのは苦手だ。

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まさに、この『MEG』の予告とポスターはそうした恐怖に訴えかけるものになっている。正直、映画館の大画面で観たら、自分はどうなってしまうのだろうか、そういう期待ができるという意味では今年最も楽しみな映画かもしれない。

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水面下の恐怖といえば古典のこれも

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サメではないけど子供の時に一番ビビったジャケットは『ザ・グリード』

『MEG』に備えてこの機会にサメ映画をいろいろ観てみようと思った。それでまずはNetflixにあった『ディープライジング』を観てみました。

開始早々やられたのは『shark attack2』という原題が画面にぎゅーんと迫ってきたこと。ああ『シャークアタック』子供の時にテレ東で観た記憶がある.....キャスパー・ヴァン・ディーンが出ていた。そういえば、キャスパー・ヴァン・ディーンは『シャークトパス』シリーズにも出演している。もしかしたら、サメ映画史においては重要人物なのかもしれない......。

しかし、続編とはいえ内容にまったく関係はなかったし、結論から言えば本当に志の低い『ジョーズ』の丸パクリ映画だった。海を観光資源とする町に人食いサメがやってくる、サメの危険性を訴える専門家の主人公、聞く耳をもたず利益を優先する企業と町、しかし案の定サメが海水浴客を襲い、それみたことかと主人公たちが大海原へと案の定サメ退治、基本はこれ。そこにサメに姉を殺されたヒロインの物語が絡んだりと一応独自のことをやっているものの、あまりにも薄っぺらい。名作のストーリーラインをパクっている割には、個々の描写や展開は回りくどく陳腐でつまらないという体たらく。肝心のサメ描写は実際に作ったかどっかから持ってきたかと思われるサメのハリボテと、同じくどっかからコピペしたと思われるサメのCGが数秒出てくるだけで、それ以外は基本的に海で自由に泳ぎ回ってるサメのストックフッテージと、ぎゃーっと叫んでる人間のカットを繋いで誤魔化している。ただ自由に泳いでいる野生のサメと、そこにはいないはずのサメに向かって懸命に芝居している俳優たちの心情、そしてそれを繋げばそれっぽく見えると考えた作り手達、その三者のことを思うとなんだかやるせなくなってしまう。

まったく見所はない『ディープライジング』だったが、なんと続編(正確には三作目)の『ディープライジング コンクエスト』があった。当然、悪い予感を抱えたまま観はじめたところ、これが前作に輪をかけてひどく、作りが適当過ぎるがあまり、ものすごく面白かった。物語は前作同様『ジョーズ』からパクったしょうもない代物だけど、なによりもサメ描写がすごい。襲いかかるのが普通のサメではなく、かつて絶滅したはずの超巨大サメ、メガロドン(『MEG 』と同じネタだ)だから、前作のようなちゃちなハリボテとストックフッテージで誤魔化すことが出来ない。そこで作り手たちが知恵を振り絞った結果がこれ!

まるで自主映画のようにトンチが効いた特撮。こんなの観たことあるだろうか。他の映画では到底お目にかかれない唯一無二のものが観れるのなら、それがたとえ最低なものだとしても、その映画には絶対の価値が生まれる。実際本作はこのあまりの酷さから本国ではカルトな人気を獲得しているらしい。観賞後、自分も思わず様々なシーンを巻き戻して何度も観てしまった。

実はサメ以外もスゴい。突出しているのは、いよいよサメ退治に向かうという決戦前夜のシーン。主人公とヒロイン二人きりになると主人公がこんなセリフを言う「なんだか興奮して眠れないよ。君を食べたい気分だ」すると次のカットでは、もうセックスシーンが始まっている。二人が恋愛関係に発展しそうな気配は一応匂わしていた程度に過ぎなかったから唐突に始まることにびっくりしてしまう。しかもこのセックスシーンは、いまだに作り手たちの考えるセックス描写が『ナインハーフ』のレベルで止まっているとしか思えないような、ダサいものだ。(これは前作のセックスシーンも全くそうだった。そちらもお決まりのように決戦前夜にしていた)そして、このシーンはヒロインが絶頂に達したその顔の輪郭に、海原に浮かぶ朝陽がピッタリと重なり、そのまま朝のシーンにフェードインするというギャグとしか思えない編集で幕を閉じる。

このセックスシーンもアメリカでは人気らしく、件の主人公のセリフは「映画史上最も素晴らしいセリフ」として抜き出されYouTubeに複数アップされている(原語だと「eating your pussy」ともっと直接的に言っているから人気が出るのも納得)

他にもクライマックスに登場する潜水艦の外観と中身が全く一致ていないとか、カットが変わると登場人物の額からそれまでは全くなかったはずの謎の出血が起こっているとか、サメ以外でもかなり面白く、常にこちらの予想を軽く越えてくる。両方Netflixにあるから是非とも観てほしい。きっとあなたの度肝を抜くだろう......。

『ゲティ家の身代金』

本作最大の見せ場である耳の切り取りシーンは、実際の直接描写自体より前振りが一番残酷な感じがして良かった。突然部屋に入ってくる屈強な男たち、人質になぜか強い酒を飲ませようとし出し、やがて外科医と思われる不気味な男が...それらの前振りによって「これからどんな嫌なことが起きるのだろう」と観客は強く想像してしまう。だから、肝心の直接描写はそこまでしっかり見せなくても、結果的にはものすごい陰惨な印象を残す。もちろん、耳を切り取る描写自体も良くて(あの血がピューっと静かに吹き出す感じは『エクソシスト』の病院で拷問のような検査を受けるリーガンの胸の管から吹き出す血の嫌さに近かった)相変わらずリドリー・スコットはこういう所に妙な気合が入ってしまう人だなーと感心した。ちなみに、隣にいた観客は部屋に男たちが入ってきてからの一連の前振りでずっと目を伏せていて、直接描写自体はなんとか観れていたから、やっぱり前振りやリアクションって大事なんだと改めて思った。

 

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そういえば、あの外科医ウィリアム・フィンレイに似ていた。

 

とはいえ、犯人グループの目的は明確に金であるから事件自体に特別性はない。そうなると実話を基にする本作にとって最も肝心なのは、身代金を断固として払わんとする人質の祖父、大富豪のジャン・ポール・ゲティと、人質となった息子をなんとしても助けたい母親との攻防戦。そここそが、わざわざ映画化されるほどの一番のポイントである以上、勝負どころはゲティの存在感だけど、うーん...これがどうにも普通だった。そのせいで本作自体も普通の出来になってしまったと思う。クリストファー・プラマーはゲティに顔も似ているし貫禄もある。だけど、品格がどうにも漂ってるせいで、このキャラに必要と思われるゲスな迫力を感じなかった。それに実際のゲティの年齢に近いせいもあって、後半のマーク・ウォルバーグから詰められるところや寝起きで彷徨うシーンなんかは、本当に年老いた老人を観ているようにしか思えなかった。そういう風に、だんだんとあらわになっていく所詮は孤独で虚しい大富豪という姿は、実際のゲティのリアルに近いのだろうけど、それって映画としてはあまりにありきたりでつまらない。だから、本作自体も所詮は高級な再現ドラマ程度のレベルに留まってしまったのだと思う。

となると、やっぱり特殊メイクによって見た目からして異形の存在に化けたケヴィン・スペイシーは本作には必要不可欠な存在だったのではないかと考えてしまう。予告編でも強調される「Nothing」というゲティのセリフ、プラマーと全く同じことを言っているはずなのに、スペイシーの方がゲスく、そして底知れない感じがしてカッコ良かった。他にも印象に残る「More」というセリフも彼ならきちんと正確に言ったのではないかと思う。ソフト化の際には特典映像でスペイシー版も収録してくれないだろうか。

本作は倫理的に許されないことをした役者の出番を丸ごと別人に差し替えるという、現実的に全く正しい対処をしたことで、本来持っていたポテンシャルや魅力というものが失われてしまったと思う。非常に惜しいことをした映画だったんじゃないか。

『ビリー・リンの永遠の1日』

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イラクに出兵した少年ビリー・リンは、戦地で敵に囲まれる上官を単身助け出しているところがたまたま撮影され、話題になったことから祖国で英雄として讃えられる。そんな彼と部隊の仲間たちがアメリカに一時帰国し、アメフト最大のイベントであるスーパーボウルのハーフタイムショーに出演することになる。

 

アン・リーの最新作にして豪華キャスト多数出演にも関わらず、アメリカ本国では評価も興収も良くなかったらしい。観終わって思わず「そりゃそうだ」と納得してしまった。それは、作品の出来が悪いからではなく本作が「アメリカ人が見たくないアメリカ」をまざまざと観せつける映画だったからだ。同じように実績ある有名監督の新作で、豪華キャスト共演の期待作でありながらコケてしまった『ダウンサイズ 』も「アメリカ人が見たくないアメリカ」映画だった。個人的には『ダウンサイズ 』と並んで今年観た映画の中では、とても感動した映画だった。

 

本作はスーパーボウル会場でのドラマと戦地の回想が並行して描かれ、やがて英雄的行為をした決定的な記憶へと向かっていく、そんな作劇で進んでいく。

帰還兵や英雄の苦悩を回想を交えて描いた映画は、最近のイーストウッド監督作品を代表にして数多くあるが、本作はアメリカ国民の熱狂に湧くスーパーボウル会場を舞台にしたことで、主人公と仲間たちが商業主義によって残酷に消費されていく様が描かれていく。これが類似作品にはない本作独自の鮮烈でオリジナルな魅力だと思う。

彼らの物語を映画化するため、大会社と電話で交渉をしまくるエージェント(演じるのはクリス・タッカー!)が常に同行し、一見彼らをもてはやし優しく接するようでいるが、その目的は金儲けのためでしかない。

会見の場でビリーたちは記者から「夜は眠れますか?」「この戦争でアメリカは何を得たと思いますか?」「敵を殺してどうでしたか?」と聞かれ、スターのアメフト選手たちに会えば「デカイ銃をぶっ放すってどんな感じ?」と聞かれる。全てがあまりにくだらない。

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大好きなロンリー・ガイこと、スティーブ・マーチンフットボールチームのオーナーを演じているが、彼はアメリカ的資本主義の最悪な理屈でビリーを私物化しようとする。目が常に死んでいて本当に嫌な人物だった。

 

ビリーはチアガールの女の子とふと目が合い、二人は恋に落ちる。が、彼女はビリーの英雄としてのパッケージを好きでしかないことが次第に分かっていく。

誰もがビリーと、その仲間たちのことを「英雄的行動をしたヒーロー」としてしか見ない。そして、その彼らの活躍を「アメリカのためである」とかヒロイックに解釈し、綺麗事とおためごかしの下都合よく消費する。

アホな若者たちが「お前らの中にゲイはいるか?」などと揶揄ってくると、カッとなったビリーたちは彼らの首をしめて面白半分に落としてしまい、若者たちは本気で恐怖に慄く。もちろん悪いのは若者の方なのに、ビリーたちは全くスッキリとしていない。祖国であるにも関わらず、ここには彼らの居場所がない。

そして、この場所には彼らに対する真の尊敬や心遣いなんてものもまるでない。だからこそ本番のハーフタイムショウでは、火薬の派手な爆発音とミサイルを模したロケット花火で帰還兵たちを取り囲むなんて、悪い冗談でしかないことをやってのけてしまう。ここに来て、それまで能天気に騒いでいるように見えた兵士たち自身も針が触れてしまい、偉そうに指示をするスタッフに殴りかかったりと暴力的になってしまう。

ビリーの回想もハーフタイムショウの狂乱によって、ついに上官を助けた「英雄的瞬間」へと向かっていく。そこでいざ観客に見せつけられるのは、名前もわからないイラク人の首にビリーがナイフを刺し鮮血が広がる無残な光景であり、そして結局、助けることができなかった尊敬する上官の死に顔だ。主観視点だからこそ、画面にどアップで向けられるヴィン・ディーゼルの虚しい死に顔が目に焼きついて仕方ない。

 

本作を観ていてポール・ヴァーホーベンの『ロボコップ』と『スターシップトゥルーパーズ』を連想した。立ち込める戦意高揚の雰囲気や、戦争も娯楽として都合よく消費する感覚は『スターシップトゥルーパーズ』を、資本主義を代表とする巨大な力によって個人のアイデンティティが潰される感覚は『ロボコップ』を連想した。その二作と本作も異国人の監督から捉えたアメリカの姿としても共通していると思う。 

ちなみに『ロボコップ』も『スターシップトゥルーパーズ』も主人公が実は死んでいるんじゃないか?という風に見ることもできる物語だと思うのだけど、本作もそう見える。主観視点の多用と、ほとんどの登場人物がビリー個人の本心には関心を向けないことで、ビリーも観客もまるで生きている心地がしない。もしかして、上官を救出に行った時に彼も死んでいて、今見せられているフットボール会場での物語は彼の妄想などではないか?そんな気までしてきてしまう。

本作の特徴は全編のほとんどがビリーの主観視点で撮られていることだ。登場人物たちがビリーに話しかける時は、カメラ目線で画面に向かって話しかけてくる。これによって、ビリーと同化する感覚がより強固になり、取り巻く状況の違和感や薄っぺらさが痛烈に伝わってくる。最新鋭の4K撮影による必要以上にクリアな画や、劇場公開時には3Dで上映されたというのは、その主観視点による没入感を高めるためのものだったと思うから、それらの技術が完璧に再現できる視聴環境でいずれ観たい。

 

最終的にビリーは戦地に戻るか祖国に留まるかという選択の末、戦地に戻る方を選んでしまう。これはとても愚かな行為に見える。なぜなら、彼は間違いなくPTSDを患っているだろうし、戦地に戻ったところでさらに悪いことしか待っていないのは明白だからだ。それに、このまま戦地に行ったきり二度と祖国に戻ってこれないのではないか。終盤、ビリーを一個人として大切に思っている唯一の人物と思われる姉と交わすあの会話が最後の別れになってしまうのではないか、そんな予感もしてしまった。しかし、彼が戦地で負ってしまった責任や仲間たちとの友情はかけがえがないものであり、それは紛れもない事実だ。それに、彼ら自身が言う「こんな祖国にいるくらいなら戦地にいる方がマシ」という言葉は、映画を最後まで観た観客にも痛感できてしまう。

ラスト、どこにも居場所がない彼らが車中でお互いに言い合う「愛してる」の言葉は真実だからこそあまりに切ない。だからこそ鑑賞後もズシンと尾を引いて、彼らのその後を考えざるを得なくなる。

 

ちなみに本作は大好きなこの番組で熱く語られていたため観たのだった。この番組は日本ではマイナーな作品とその関連作品などを数多く紹介する番組ですごく貴重で勉強になっています。


炎のディスクコマンドー 第166回 『ビリー・リンの永遠の一日』