『裸の銃を持つ男』シリーズ
数年前、話題になった『アデル』という恋愛映画をこの前観ていた。物語中盤、主人公の浮気が恋人にばれ、別れ話を切り出される展開がある。お互い眼には涙を浮かべ激しくぶつかり、やがて暴力的な掴み合いに発展する。演じている女優二人の激しくて重たい演技と、手持ち撮影の露骨に生々しい画面も相まって、息がつまりそうになる展開。こういう重苦しくて真面目なだけの映画を観ていると、無性にくだらないことを起こして、映画をぶち壊したくなってくる。もし、この二人の取っ組み合いが次第にプロレス技に発展し、解説者までもが登場して実況を始めだし、家が破壊されるほどエスカレーションしたら......。『裸の銃を持つ男』ならやりかねない。
『裸の銃を持つ男』は、ベタな刑事映画の定型をなぞりながら、全てのシーン、全てのカットの隅々にまでところ狭しとふざけたギャグをぶちこんだ、いわゆるパロディ映画だ。しかし、ふざけようがあまりにも凄まじいため、もはや刑事映画というジャンルに限らず、全ての映画が内包してしまう定型を徹底的に破壊してしまうような、まさに映画テロリストのような作品だ。これを観てしまうと、安直な定型的展開(たとえば、悪役は髭が生えてるとか、クライマックス前にヒロインが捕まってしまう)が陳腐に思えて、真面目に観れなくなる。それだけでなく、『アデル』のように決して安直ではない、真剣な映画を観ているときにも、その真剣さがもうアホらしくってしまうこともある。
主人公であるフランク・ドレビン警部がまず凄い。彼は車を駐車すれば、それによって必ずなにかを破壊してしまい、部屋に入ろうとドアを開ければ、必ずそのドアにを人にぶつけて殺してしまう。ひとたび彼が何かをすれば、世界は激しく引っ掻き回される。演じるレスリー・ニールセンは変顔などせずに、飄々とした表情でそれらをやってのけてしまうのが怖い。そして、主人公として求められる品行方正さや正しさから開放されているところに清々しさを感じる。しかし、こんな人間が主人公である以上、映画は正気ではいられない。
ギャグに対するアイデアの豊富さ、金のかけ方は他の追随を許さない。全編に仕掛けられたギャグの数々は、登場人物が反応して拾うものもあれば、しないで流れていくものもあるため、観客が注意を凝らして見つけなければならない。それくらい贅沢ということだ。
重要なのは、この映画のギャグが知的さに裏打ちされたものなどでは決して無く、とことん即物的なものでしかないことだ。それは、この映画の態度でもある。ハートウォーミングな要素や現代社会へのメッセージを込めて「ただのコメディ映画ではございません」と気取って見せるのではなく、本当にただくだらない映画として存在し続ける。コメディ映画はこれくらいのバカバカしさをもってこそパワーを発揮する。この世の全てをバカにし、解放させてくれる。だからこそ、自分はコメディ映画がいちばん好きなんだ、ということに改めて立ち返らせてくれる映画でもある。