『ワイルドスピード スーパーコンボ』

このシリーズの不良の家族愛的な原理に基づく世界観や物語には興味なかったけど、途中からドゥエイン·ジョンソンとジェイソン·ステイサムが加わり、非人間的な要素が増えてきたから見続けることができた。そんな自分にとってシリーズで一番好きなのは『スカイミッション』であり、二人が最初に出会って繰り広げる序盤のアクションがシリーズ中で最も好きなシーンでもあります。この二人を主人公にしたスピンオフというのは、夢のような映画になると期待してた。で、ボーッと観る分には面白かった。

ヒロインのヴァネッサ·カーヴィは良かった。前半二回あるドゥエイン·ジョンソン相手のアクションは、彼女が動き出してドゥエインに向かっていくだけでスリリングだった。デヴィッド·リーチ監督はデビュー作『アトミックブロンド』に引き続き、華奢な女が屈強な男相手にガチで戦いを挑む様子を描くのが上手いと感じた。

それ以外はまったく上手くない。本作はほぼ全編ナンセンスなコメディ映画なのにまったく笑えない。これは大問題だ。アバンタイトルで二人の活躍を分割画面で同時進行させて描くのも、両者の動きや台詞のシンクロ具合などが中途半端で、様式化した見せ方としてうまくいってない。気の効いたものにもなってない(事態は続いてるのに分割画面は途中でやめちゃうのがまた中途半端)。他にもギャグやコミカルな掛け合いが大量にあるけど全部つまらない。見終わったあとに本作のギャグを思い出せる観客がどれくらいいるだろうか?公開初日に半分以上席が埋まった劇場で観たけど、最後まで笑い声が起きることはなかった。カメオ出演したライアン·レイノルズとケヴィン·ハートのくどさにもイライラした。まるで面白くない内輪ネタ、エンドクレジット後まで続く露悪的な下ネタギャグはリーチの前作『デッドプール2』でやったノリをまんま持ち込んでしまっているが、もしも、この程度で自分にはコメディが出来ると勘違いしてるのだとしたら、それはコメディに対する軽視だ。

で、こういった上手くなさはリーチの過去作全てに感じることです。とにかくこの人には演出に拘りや戦略、それから引き出しも無さすぎる。悲しいシーンもコミカルなシーンも「この角度から撮影して、編集でこう繋げばそれっぽく見えるだろう」というルーティンで演出してるんじゃないかと思った。たしかに、いつも撮影や照明がカッコいいからそれっぽく見えるけど、出来上がるのはあくまでもミュージックビデオやCM的なカッコよさであって決して映画的なものではない。要は物語とキャラクターがまるで描けていないということに尽きるんだけど。これは、MVやアクション監督などを長年やって来た人が単独で監督をしたときに陥りがちなことです。

リーチの本領であるはずのアクションにも同じことが言えて、ワンカット単位でのアクションはすごいことをやっていても、それらが繋がったひとつのシーンとして観たときにメリハリがないから、見ていてボーッとしてくる。

アクションではドゥエイン·ジョンソンという筋肉にどんな振り付けをさせるのか最も期待していたんだけど期待はずれだった。リーチが得意とするアクロバティックさとリアルさが共存した格闘アクションはジェイソン·ステイサムには出来ても、ドゥエイン·ジョンソンには無理だ。だから、全体的にステイサムには気合いが入ってる感じがしたけど、ドゥエインはどれも力押しだけで単調だった。クライマックスの大事な大事なハカのシーンもそう。ドゥエイン·ジョンソンと男たちが半裸になってハカをするシーンをスクリーンで観るために初日に行ったのだ!!ここでステイサムも上半身裸になって加わるのではないか?敵のイドリス·エルバたちもやり始めるかもしれない!?いろいろな想像をしていたのだ。しかし、結果ものすごく微妙なハカだった。細かいカット割りとアップの多い画で見せられるから、全体のダンスの一体感とカッコよさも伝わらない、目をひんむいた表情もアップで撮らないからハカの醍醐味がまったく伝わらない。これだったら『アイスブレイク』のハカの方がずっとカッコよかった。ナンセンスコメディを装う癖に、こういう部分にコメディだからこそ成立するカッコよさや感動が足りないのはどうなんだ。

そこから始まるがさつなクライマックスは自分が期待したバカさ野蛮さは足りなかったけど、ヘリとチェイスしてピンチになったときに、応援に駆けつけた車で次々と連結していくのは盛り上がった。でももっと振り切った見せ場にもしてほしかった。ドゥエインがヘリから垂れ下がる鎖を掴んで腕力だけでヘリを引き留めるシーンも、編集が細かくてちゃんと観れない。もっとしっかり見せてくれ!ここに力を入れないでどうする!バカっぽさが足りないだろう!そもそもドゥエインがシャツを着たのもガッカリだ。

ドゥエインの兄(クリフ·カーティス)ももったいない。クライマックス前に和解してどうする。和解できないままクライマックスに突入して、件のピンチになったときに『怒りのデスロード』まんまなカット割りで車で豪快に登場すれば、それだけで感動したかもしれない。もしくは、ハカのときにドゥエインの横に無言で加わってもいいかもしれない。それも絶対に感動する。だけど、デヴィッド·リーチはそもそもドゥエイン·ジョンソン要素に思い入れが無かったように感じた。むしろドゥエインが体現する泥臭いバカっぽさからは逃げているような感じもする。

要は、この映画はバカなことやってるようでいて、可愛いげというものが圧倒的に欠けている。そこが一番不満なところだ。可愛いげというのは特にコメディ映画には必要不可欠なものだ。可愛いげさえあれば、出来がどんなに酷くても許せてしまうし、観客に好印象を抱かせることができる。ただでさえドゥエイン·ジョンソンというのは、いまの映画界が誇る「ミスター可愛いげ」だ。ととえ主演作がどんなにつまらなくても、その可愛いげで悪い印象を抱かせない無敵の俳優なのだ(そもそもステイサムだって可愛いげ俳優だ)それを生かしきれてない、いや生かそうともしてない時点で本作に好印象を抱けない。これなら『ランペイジ』などの本当にしょーもない映画でドゥエインと組み続けてるブラッド·ペイトンの方が可愛いげ監督としてリーチよりもずっと優れてる。

MV的な演出、スタイリッシュぽいカメラワークや編集、ダサいフォントのテロップをこれ見よがしにやる割には、全くカッコよくもないし全く気も効いてない。表面を取り繕うばかりで、可愛いげがない魅力的じゃない。『アトミックブロンド』の頃から薄々感じていた、デヴィッド·リーチに対する信用できなさを本作で確かなものにした。

ちなみにクリスマスに公開するドゥエイン·ジョンソンの新作『ジュマンジ ネクストレベル』では、本当にかわいい俳優ダニー·デヴィートがドゥエインのなかに入るのだから、可愛いげという点で隙のない映画であることは間違いない。

『この世に私の居場所なんてない』その他

最近観た映画で自分にとっては苦手なタイプのものが3つ続いたので、感想を書き残しておきます。

『この世に私の居場所なんてない』

このタイトルを聞いた100人中90人がまず思い浮かべるようなイメージを、そのままなんの工夫も捻りもなく画にしてみせてしまったアバンタイトルでずっこけた。その後もそんな調子で、簡単に連想したアイデアをそのまま採用して進んでいったような、中身の薄いスカスカ映画。脚本初稿で撮影してるんじゃないかと思った。

たぶんこの作り手はヴィジランテ映画として、ジェームズ·ガンの『スーパー!』がやりたかったんだと思う。本作を観ると、いかに『スーパー!』がエンタメとしてしっかりしていたか思い知ることになる。そもそも、この「まあ、そうでしょうねぇ」としか思わないタイトルが、物語の最後にはどう変化するのか期待したけど、なんの変化も起きず終わった。

内容はこの程度なのに、サンダンス映画祭で賞がとれて、それなりの人気を獲得できたのはクオリティの高い撮影や編集とセンスよく思える音楽の使い方じゃないか。そういった表面的な誤魔化しが出来てるだけ、かなり有害な映画だと思う。いわゆる「オフビート」というやつなら、物語は緩くても許されるのか。

 

『パターソン』

ジャームッシュは『ストレンジャーザンパラダイス』しか観たことない。物語の無さも苦手だったけど、男にとって都合のいい感じがするヒロインが苦手だった。

本作も苦手だった。特に奥さんが苦手。舞台になる街とそこにいる人間がみな洒落たアーティスト気質の持ち主みたいなのも苦手だった。これも「オフビート」なんだろうか。アダム·ドライバーの顔は面白かった。

 

勝手にふるえてろ

タイトルインから30分くらいは、なかなか期待させた。というのも、これくらい作り手の狙いやビジョンがはっきり伝わる日本のコメディ映画を観れるのが嬉しくて楽しかったから。主人公の松岡茉優はハマリ役だったし美人の同僚も魅力的で、女のキャラクターに関しては、フィクションとしての存在感と現実としての実在感のバランスがみな絶妙で良かった。こういう女キャラクター像は最近の日本映画であまり描かれてない気がする。本作に関しては、やっぱり監督が女っていうのが大きいのか。

だけど、開始30分以降はすでに分かりきったことを引き伸ばして描いてるようにしか思えなくてどーでも良かった。実際、映画としてもテンションはどんどん落ちて、中盤以降はよくある自意識を扱った恋愛映画に落ち着いていった感じがあってつまらなかった。ただ、これくらいが今の映画が扱う物語としては普遍的に映って丁度いいのかもしれない。だから人気を獲得出来てるのかも。

女は良かったけど、男はみんなどーでも良かった。主人公を好きになる同僚の男が登場してからどんどんつまらなく感じていったかも。こいつが本当にどーでも良くて困る。サラリーマンにも見えない(演じてるのはミュージシャンらしい)。登場した段階から主人公がこいつを選ぶに決まっている。最後、これで冷淡に捨てたらビックリするけど。主人公がずっと想いを寄せてた王子にいたってはもう論外!

以上

『ゴジラ キングオブモンスターズ』

ヤバい!昨年あたりからどんどんつまらなくなってるエンタメ映画の真打ちが来てしまった。何もかもが安易で陳腐、観客をバカにしたようなところもあって腹も立った。最近のシリーズもの映画を観ていると、大手チェーン店の新商品のコマーシャルを二時間観てるような感覚になる。もはや映画を観るというより、あらかじめ想定しているものを確認しに行く作業に近い。フランチャイズ映画というのは伊達ではないわけだ。そんなわけで、ずーっとあくびと苛立ちの連発でした。

酷いのは人間ドラマ。はなから大したやる気もないならやらなきゃ良いのにと思った。それで描かれるのが超つまらないウェットなドラマなのが腹立つ。キャラクターは全員ムカついた。特にチャン·ツィーお前はすっこんでろ。せっかくクライマックスで雲のなかからモスラがカッコよく急降下して登場してきても、間にチャン·ツィーの「目を閉じて共鳴してます顔」のカットを挟まれるから冷める。他にも、放射能を浴びて復活したゴジラ海上に出てからカイル·チャンドラーと見つめあったり(怪獣が人間と見つめあってんじゃねえ!)、渡辺謙のどうでもいい自己犠牲も最低。序盤で相棒のサリー·ホーキンスを殺したのも、この自己犠牲のためなのか。『アベンジャーズエンドゲーム』のスカヨハ自己犠牲にも感じたことだけど、近親者がいないものは死んでも大丈夫とでも思ってるのか。そんな安易な人間観最低だ。「さらば、友よ」なんてそれっぽいだけでまるで感動しない台詞を言われても困る(ゴジラと眼が合った瞬間に、がぶっと喰われろと思った)。それと渡辺謙演じる彼にとってあの自己犠牲は、憧れのゴジラに身を捧げて一心同体になるというポジティブな思いも込められているのではないか。だったら『インデペンデンスデイ』の「宇宙人ども帰ってきたぜぇ!」くらい前向き感があっても良いのでは?本作に限らず、自己犠牲を不必要にウェットに盛り立てれば感動を作れると思ってる軽薄な作品は大嫌い。

どうでもいいキャラクターがどうでもよく織り成すドラマが、楽しいはずの怪獣描写にブレーキをかける。そうなると怪獣描写にも雑さを感じて乗れなくなる。だいたい、本作はドラマにしろ怪獣にしろ大したことないものを大仰にそれっぽい感じで描いてるだけに思える。監督のドハティのインタビューを読んでもそれっぽいこと言って高尚に思わせてるだけに感じる。本作はただガタガタの脚本(これでゴーが出るのが信じられない)に紋切り型の演出しか出来なかった結果、すごくアホで幼稚な映画にしかならなかった。しかもアホが行き過ぎて異常になった感じも一切ない。たとえば本作と似たタイプの映画でいえば『トランスフォーマー最後の騎士王』はアホが行き過ぎて異常だった。

前作のゴジラは画面も暗く、もっともらしいリアリティに寄りかかり過ぎて映画としては弾けきらないところもあったけど、新たな怪獣の見せ方やディテールへのこだわりは徹底させていて立派だったなあ、と改めて思った。敵怪獣ムートーの無機物と有機物の中間のような見た目も斬新だったし、怪獣映画としては新しいことをたくさんやっていた。だから、たとえ本作と同じようにドラマがつまらなくても許せた。そのつまらないドラマだって、真面目にやろうとして失敗したようなつまらなさだったから、本作のよりはマシだった。

音楽の不満もある。前作でせっかくアレクサンドラ·デスプラが作ったゴジラのテーマを使わず、伊福部音楽に戻るのは後退してるとしか思えなかった。

『アベンジャーズ エンドゲーム』普通の映画ではない

ネタバレしてます。

 

サノスがどれだけぶっ殺し甲斐のある悪になれるか期待した。前作のサノスには同情や理解の余地が生まれていたから悪ではなかった。あれは敵だ。自分にとって敵は殺したくならないからグッと来ない(最近の映画でいえば『ブラックパンサー』のキルモンガーは敵。途中で殺される片腕サイボーグの男こそが悪といえば分かりやすいかも)

開幕早々あっさりとサノスを殺すことができてしまったのに驚いた。これでアベンジャーズを手も足も出ないほどの窮地に追い詰めたのは良い。それに前作のサノスがリセットされて、また別のサノスが観れるかも!と期待が高まった。が、しかし前作のサノスが易々と片付いたあとに唯一残ったミッションは消されたヒーローたちを復活させることのみになる。物語がそこに向かうとなるとサノス自体が実はどうでもいい存在になり、いずれ訪れる直接対決が盛り上がらないかも...という不安もよぎった。で、その不安通りになった。

すべての石を手に入れたアベンジャーズ側が、消されたヒーローたちを復活させるべく指パッチンした直後にサノスが本拠地に爆撃をかましたことで一気に冷め始めた。どんな手段を使ってでもヒーロー復活を阻止しなければならないはずなのに、どうしてパッチン前に爆撃しなかったのか。まんまとアベンジャーズの裏をかいているにも関わらず後手に回るなんてあり得るのだろうか。しかも手当たり次第爆撃し本拠地を瓦礫の山にしたことで、ストーンがどこにいったのか分からなくなり、敵も味方も一生懸命探さざるを得なくなる始末で、爆撃自体にもなんの意味があるのか分からなくなる。

パッチン前に爆撃していれば、旧アベンジャーズメイン三人とサノスの決戦が、消されたヒーロー復活を賭けたものになりもっと盛り上がったのではないか。それで本当にもうダメかと思ったところで、なんとかパッチンできてすぐにヒーロー大復活!でもいいのでは。ただしこれだと現状より短い間隔でもう一度サノスを消すためのパッチンをしないといけなくなり今以上にアホっぽいのかもしれない。

なんにせよ、現状の展開ではいくら窮地に追い詰められても「どうせみんな復活してるんだから、グッドタイミングで駆けつけるんでしょう」と安心した状態で先の展開が読めてしまい、さっぱりハラハラしないし盛り上がらない。だから「盾をボロボロにされてもサノスに立ち向かうキャプテンアメリカ」という、本作中最もヒーロー映画として普遍的な感動に迫りかけた展開も、復活したヒーローたちが駆けつけるまでの引き伸ばされた見せ場にしかなってない。

というか、アベンジャーズたちは一度目のパッチンで、まずサノスを消しておけば良かったのではと思えてくる。

その手の「なぜもっと早くそうしなかったのか?」「なぜそれを知ってるならもっと早く言わないのか?」系の疑問や不満は前作から尽きない。特にもはや何でも出来るはずのストーンとドクターストレンジの魔法などは、強さのレベルや質が展開に応じて変わるため、単に作り手が誘導したい方向に持っていきやすくするための都合の良いアイテムにしか思えなくなる。

そもそも前作。サノスの指パッチンで消される奴はランダムに選ばれたはずだったのに、なぜか旧アベンジャーズメンバーが消されなかったのには納得がいかない。せめて作品内でもっともらしい理屈や説明をつけてくれるなら良いが、それが無いから「ああ、本作で出演契約が終了する旧メンバーの物語は完結させる必要があって消すわけにいかなかったのね」という作品外の都合しか見えず物語から冷める。しかし、もはやそういった作品外の都合や事情を観客はくみ取って好意的に解釈してくれることをマーベル映画の作り手は分かってやっていると思う(実際そうなってる)そういうものを汲み取る気がない自分にとっては、いわゆるご都合主義というやつがあまりにも平然とまかり通りすぎていて映画として満足しない。

アイアンマンが死ぬ展開にもさっぱり納得いかない。ソーやキャプテンマーベルやら他にもたくさん人知を超えた攻撃に耐久して助かってきた人外のキャラクターがいるのに、どうしてあの場でアイアンマンが自己犠牲しないといけなかったのか。前作でドクターストレンジが見てきたとか言う何億何千分の一の勝利がまさにアイアンマンの自己犠牲だった、というのが作品内で用意した理屈なのかもしれないけど、キャラクターの行動原理や展開を「そういう運命なんです」で片付けていいなら、何でもアリになってきてどうでも良くなってくる。だいたいストレンジは勝利する方法を知っているならもっと早く明言しろよと前作でも思った。あと本作中盤、タイムトラベルして(この展開は楽しい)ハルクがストレンジの師匠から石を貰いに行くのも、出会い頭に「ストレンジは未来でストーンを渡す」とハルクがちゃんと言えば無駄に揉めずに済んだことだし、だいたい師匠は未来を見てハルクが来た理由を瞬時に察したはずなのに、なぜそのことには気づかないのか。もう良くわからなーい。

 

ぶち嫌いだったのはクライマックス、女ヒーロー達が集団になるところ。全宇宙の命運がかかった大規模かつメチャクチャな戦場で、まるで事前に打ち合わせでもしたかのように女ヒーローたちが突如一同に会してる時点で真剣に観る気がなくなった。同様の展開は前作のクライマックスでもあったが、あれは「女ヒーローたちが偶然近い位置にいた」というこれ以上ない理屈と必然を用意してたし、人数も合計三人だけで無理がなかったが、今回は総勢十人以上であるからあまりに無理がある(しかも集まってやることは最年少のスパイダーマンの護衛だ)やるなら前作同様観客に「そうなるしかないな」と思わせればいいだけだ。それこそ事前に打ち合わせしてるシーンを入れたるか、あるいはリーダー格のマーベルが女ヒーローたちだけに集合をかけるか、それくらいぐうの音も出ない必然を作ろうともしないで唐突にやるから、この展開が「ああフェミニズムに配慮したんですね」としか思えない。

断っておくけどフェミニズム自体はなにも悪くないし、全世界規模で公開される大作映画がこういったメッセージを打ち出すことは極めて誠実かもしれない。しかしその「誠実」はフィクションにとって必ずしも誠実とは限らない。たとえ現実社会にとっては正しいメッセージを打ち出していても、フィクションとしてきちんと面白く必然性もって再構築されたものになっていないなら、そんな正しさには一切価値がない。このブログでもこれまで散々文句を書いてきたが、現実で正しいことが映画にとっても正しいことなのだと信じて疑わない価値観は本当に危険なことだ。しかし、現在のエンタメを代表する映画がここまで白々しいことを大っぴらにやらないといけないレベルまで来ているのかと思うとこれは真剣にヤバいと感じた。

そもそも、女だけを束にさせてる時点で特別に配慮している感じが出ている。それは本当にフェミニズムであり男女平等なのか?男に置き換えても同じことをできるのか考えてほしい。こうやってまるで腫れ物に触れるようにエンタメ映画が女(に限らず特定の人種、立場)を扱っている以上、真に普遍的な存在として描ける日はどんどん遠のくんじゃないか。こんな展開をやられるくらいならテロップで「男女平等」とでも書いて画面に大写しにされた方がマシだ。『キャプテンマーベル』の普遍的女ヒーローに感動しただけに怒りが大きい。

 

本作が『エクスペンダブルズ』シリーズのようにガサツなところが魅力の映画であるなら文句は言わない(仮にエクスペ劇中でスタローンの背中からなんの理由もなく翼が生えたりシュワルツェネッガーがなんの理由もなく巨大化しても自分は怒らないと思う)

ただし本作は違う。今までマーベル映画はウェルメイドな物語作りをちゃんとしていた。なのにどうして前作から続いてこんなことばかりなのか。

安易な手段や作り手の都合によるものと思わせずにご都合主義やベタをやって見せるのがエンタメ映画に必要とされることではないか。しかしもはやマーベル映画にそんなことを望んでも仕方ないのなら、自分は今後熱心に観なければいいのです。

5月2日追記:すごく大事なことを書き忘れていた。スタローンは『ガーディアンズオブギャラクシー2』に登場したため彼もマーベルユニバースの人間だ(エンドクレジットにも登場して「俺たちもいっちょやろうぜ!」と言っていたが、いつ彼の主演作は作られるのか)

だから本作クライマックスのヒーロー大集合シーンで、もしやスタローンも火花のゲートから出てくるのではないかと思って涙ぐんだ。もちろん出てこなかった。

『キャプテンマーベル』

女ヒーロー映画で、監督と脚本家も女。流行りのフェミニズム映画の側面もあるかもしれないけど、それだけに終始せずエンタメ映画として普遍的だったのが何よりも良かった。その普遍性を担っていたのは主人公ブリー・ラーソンの明快かつ抜けの良い魅力だった。

今のエンタメ映画で女主人公、ヒーローを扱うとどうしてもフェミニズムテーマが際立ち、そのテーマを主張することに終始して、映画としての面白さや魅力(それが自分の考える普遍性)がなくなることが多いと思う。『~マーベル』以前に女ヒーローを描き、映画としても普遍的であったのは『マッドマックス怒りのデスロード』と2016年の『ゴーストバスターズ』だと思う。特に『ゴーストバスターズ』は決して見た目が美人でも強そうでも全くない女優たちを主人公にしたという点で、どの女ヒーロー映画よりも重要だった。しかし、その方向性がコメディ映画以外には受け継がれていないのがすごく悔しい。男は昔からチャールズ・ブロンソンやリー・マーヴィンのような見た目の奴もヒーローをやっている。しかし女になると見た目の多様性が失われがちなのは、今後のエンタメ映画の課題だと思う。いつかマーベル映画が見た目の冴えない中年女性をヒーローにする日が来たっていいはずだ。 

終盤の信頼していた人物が最大の敵だったという展開も含め、物語は女ヒーロー先取り映画の『ワンダーウーマン』と類似するところがかなり多い。どちらもいわゆる「女性神話」をベースにしているから、類似せざるを得なかったんだろうけど。

主人公が覚醒してからの大暴れっぷりが良い。覚醒後の大暴れを「just a girl」という明るめの楽曲に乗せてコメディタッチで見せるのが賛否両論あるようだけど、この映画には合っていると思う。いくらでも重たくシリアスに詰めれそうな展開を終盤はたくさん用意しながら、それでも明るく明快に進むのはキャプテンマーベルの何度でも立ち上がり続けるキャラクターに相応しく、映画としての洗練よりも、主人公のことを大事に描くことを優先している感じがして良かった。

ただ大暴れ後、師匠であり真の敵のジュード·ロウとの対決はギャグにせず、ちゃんと見せ場にして欲しかった。舞台がそれまでと打って変わって荒野になるのも含めてマカロニウェスタンぽいシチュエーションだっただけに期待してしまった。

アクションの見せ方が下手という批判もあるようだけど、クライマックス、主人公が地球に発射されたミサイルを止めるショットを大きさの対比がよく分かる横の構図で見せたりと、大事なところはしっかりキメていて(真面目ゆえに弾けてはいないと思う)、アクションの演出が下手という印象は持たなかった。

ラスト、ジャケットを着てぴょーんと宇宙に飛び去るマーベルの近所のお姉ちゃん的なラフさがカッコよくて好きだ。この映画のブリー·ラーソンはスケバンみがある。その後、名残惜しそうに地球を見下ろすショットもグッと来る。ここら辺は目頭が熱くなった。

個人的には『ドクターストレンジ』以降のすべてのマーベル映画は共通するつまらなさを抱えていると思っていて、もう観なくてもいいかと思っていたところで、ここで一気に持ち直したので『アベンジャーズエンドゲーム』にはものすごく期待をしています。

『バイス』抗えない悪の魅力

映画で魅力的に映るのは主人公ではなく悪役だ。悪は徹底的に冷徹で容赦ないほどカッコよく輝く。しかし最近の映画は悪役がどうにも弱くて不満を抱いていました。

バイス』はそんな不満を吹き飛ばすカッコいい悪が描かれていた。観ていてグッと来るのは、権力を握り世界を思いのままにできる気持ちよさが伝わってくること。目的のためには手段を選ばず、気に入らないものはぶっ潰し、世の中を自分の思いのままにする痛快さ。まさに悪にふさわしいカッコよさ。「いいぞ、やっちまえ!」という気分にさせてくれた。

オープニング、妻役のエイミー・アダムスが負け犬時代のチェイニーの尻をひっぱたくシーンには掴まれた(この映画のエイミー・アダムスは史上最もカッコいい)表面的には素晴らしいことが起こるような芝居に見えつつ、その後の展開が分かっていれば、まさに悪のエンジンが入ってしまったゾクゾク感もあるいいシーンだ。再起をかけた二人にはハエがたかっていた。

クリチャン・ベールは『アメリカンハッスル』からの肥満中年路線を見るに、死んだフィリップ・シーモア・ホフマンの穴を埋めようとしてるのかと思っていたが、本作にナレーターとして登場するジェシー・プレモンスがホフマンの後をきちんと継げる役者になるかもしれない。彼の顔は面白くて好きだ。

クリチャン・ベールはさすがの気合いでチェイニーを演じていた。実際のチェイニーに近いのかは分からないけど、ちゃんと普通の映画では観ないような異質な人間が主演してる感じがあった。

中盤、ついに副大統領になってしまったチェイニーがひとり大統領室をそっと見つめ、過去の回想をするシーンには感動した。彼もまた家族を大切にしている男なのだといった、凡庸な感情移入がしやすくなるからではない。「権力が欲しい」という極めて非人間的な欲望が、彼にとってはこれ以上ないほど切実なものであると分かるから感動的で素晴らしい。こうしたアプローチでヒトラーが描かれたらアガってしまうかもしれないと思った。

悪だからといって単純に描けばいいわけではない。かといって感情移入しやすいように人間的な背景や動機をアリバイのように付け足せばいいってもんじゃない。悪には悪なりのカタルシスや動機がある。それは主人公にも我々観客にも決して理解しきれない。だからこそ悪は究極の他者として立ち上がりカッコよく輝く。悪を悪として輝かせる努力が最近の映画には圧倒的に欠けていて物足りない!

チェイニーの悪に高揚した身として、ラストで満を持して観客に語りかけてくるのは展開としてカッコいいと思いつつ、決して本心は語らない人間として描ききって煙に撒いて終わっても良かったのではとも思う。もちろん、あの台詞だって決して本心では無いだろうから、煙に撒く狙いもあるかもしれない。ただしあのラストもクレジット後のシーンによって相対化されるから有効なのは間違いない。

コメディ映画としてものすごく分かりやすいのは大事。エンドクレジットとその後のオマケは分かりやすさの真骨頂。「次のワイルドスピード楽しみだわ」の台詞で締めるあのシーンは「リベラル臭ぇぞ」「オレンジ色の顔した大統領」と、思わず口に出したくなる台詞に満ちていたし、いまの世の中の空気が嫌味なく描かれていた。

『グリーンブック』

胸がすくようないい映画。胸だけでなく腹も空く映画。飯が美味そうな映画は良い。70年代の日本映画は飯が美味そうなのが多かった。特に東映の映画は凄かった。『仁義なき戦い』シリーズのどれかに登場した犬鍋、『脱獄広島殺人囚』のラストで道端に落ちてる大根(松方弘樹は豪快にかじりつき豪快に吐き出す)。重要なのは食い物それ自体は全く美味しそうでは無いこと。しかし魅力的なキャラクターが豪快に食っていることで美味そうに見える。その頃の日本映画の食に対する貪欲な描写は、作り手たちが戦時中に飢えを経験したことが関係しているのだろう。

 『グリーンブック』に登場するホットドッグ、デカいピザ、りんご、フライドチキン、どれも単体では全然美味そうじゃないのに、ヴィゴが下品にかじりつくと尽く美味そうで仕方ない。それはヴィゴ演じる彼もまた戦争を経験し、あらゆる死地を自力で潜り抜けた人物であることと無関係ではない。食欲の強さにそいつの生き様というのが表れる。そして下品で暴力的でがさつな人間というのは、映画で観るとどうしてこんなに痛快なのだろうかと改めて思った。いくつかあるヴィゴの暴力シーンはどれも、彼があまりにも喧嘩が強いため一瞬で片がついてしまうのが生々しくてカッコよかった。

ヴィゴに限らず登場人物がみな魅力的なのが本当に素晴らしい。主人公二人や家族に関わらず、旅の道中で出会う嫌なやつ、差別者にいたるまでみなきっちりと実在感がある。実在感があると善悪を超えてそれだけで魅力的に映る。

どんな人物であろうと全てのキャラに実在感があるのはまさにファレリー監督作品らしさだ。細かな人物に至るまで全員が確かにそこに存在し、それを至極当然のこととして尊重している世界観。ファレリー作品に普通の映画ではまず出てこないであろう障害者を始めとするあらゆるマイノリティが登場し、類型的な役割や善悪などに収めずに描くのは、そういう真摯な姿勢の表れである。

どんなキャラクターでも実在感をもって描ける手腕は映画監督にとって最も大事なことだと思う。どんなに脚本が良く書けても、どんなに映像をセンスよく撮れても、その中に映っている人物を魅力的に描けないと、それだけでつまらない映画に感じる。逆に言えば脚本と映像が大したことなくても、人物が良ければたちまち面白い映画になることがある。それは正に70年代のメチャクチャな東映映画や東宝や松竹の中身はいつも同じなプログラムピクチャーなども証明していることだと思う。

とはいえ本作は物語も素晴らしい。さりげない台詞のやりとりや伏線回収から観客に想像の余地を与え、表面上はベタで陳腐な印象を残す物語に豊かな奥行きをもたらしている。それによって説教臭い綺麗事と政治的主張、テーマに終始しかねない題材を、普遍的な感動をもたらす誠実な人間ドラマのに昇華することが出来ている。

たとえばラスト。それまでは主に「主人公二人の交流のための道具」として機能していた手紙が、ヴィゴの妻の一言によって新たな機能を果たす。それによって彼女が二人の旅をどう思っていたのか、会ったこともなかったドクターシャーリーとの交流など、劇中では直接描かれていない彼女の心情やキャラクターまでもが遡ってハッと広がり「主人公の帰りを待つ妻」という一歩間違えれば物語上の役割にしか収まらないところを見事にとび超えてみせる。これぞ真っ当な映画でありドラマだと思いました。